「片翼」


もうダメだ、と。
 
今すぐ地面に身体を投げ出して、もうこれ以上歩けない、と。
お前のいない世界に絶望して、ただ生き続けるだけの人間になってもいいか、と。
胸を引きちぎり、涙と暖かい血を捨てて、道端の石ころに身をやつしてもいいか、と。

叫び出しそうな咽をぐっと詰まらせ。
オレはただ、力なく立ち尽くしていた・・・・・。
 
 
 
 
 
 
 



「・・・・・・・・・!」
オレはがばりと跳ね起きた。
そして知った。
今まで見ていたのが、夢だったことに。

見回せば周囲は、暗い部屋の中。
もうすぐ満月になろうかという大きな月が、カーテン越しに光を送り込んでいる。
「・・・・・父さん?」
隣のベッドでごそごそと起き上がる気配。
「どうしたの?」

オレは今にも止まりそうだった呼吸を整え、何事もなかったかのように装おう。
かりかりと頭をかきながら。
「すまんすまん、ちょっと寝惚けたみたいだ。何でもないから、安心してもっかい寝ろ。」
「・・・・・うん、わかった。」
くしゃくしゃの頭を素直に縦に振ると、オレと同じ名前を持つ、オレとリナの子は、また毛布に潜り込んだ。
オレはベッドに起き上がったまま、しばし、その姿を見つめる。

大きくなった。
背はもう、母親を追いこしているかも知れない。
あの日から、彼女の身長が伸びていなければの話だが。



寝惚けた、と言ったのはあながち嘘ではなかった。
オレは横になり、嫌でも無理矢理目を閉じる。

夢は時として残酷だ。
幸せな瞬間をもたらそうと、忌まわしい場面に直面させようと。
どちらも目覚めた後には、やりきれない無力感が襲ってくる。
 
リナを失ってから、オレは幾度となく、夢の中でリナに会った。
5年経っても、10年経っても。
彼女の姿は変わることがなく。
あの日のまま、オレの名前を呼ぶ。
今では息子の名前ともなった、オレの名前を。
 
手をさし伸ばし。
この腕にリナを取り戻すこともある。
リナが去ったあの晩に戻り、一人で出て行こうとする彼女を抱きしめて、引き止める夢も見た。
その夢の続きがまた幸せで、一番残酷だった。





「父さん。最近、顔色悪いよ。」
朝食の席で、息子が言った。

オレは食べる手を止め、顔をあげる。
「そうか?別に、身体は何ともないけどな。」
「・・・・・。」
息子はどことなく目を彷徨わせながら、続ける。
「いや、何となくだけど、さ。・・・それに。」
「それに・・・・なんだ?」
「食べる量、減ってきてるんじゃない?」
「・・・・・・・」
テーブルの上には、空になった皿がいくつか置かれていた。
ふとオレは、競うように食べ合っていたあの頃を思いだし、懐かしささえ覚えた。
そして次の瞬間、胸に痛みを覚える。
「そんなことないだろ。お前もよく食べるようになったから、オレが食べる分が減ってるように見えるだけさ。」
「・・・・・だといいけど・・・・。」
フォークでサラダをつつきながら、呟く息子。

彼が何を言わんとしているか、オレには予想がつかなかった。
いやもしかすると、とっくにわかっていたのかも知れない。
だが、聞きたくなかった。
オレの身体を心配する、その理由を。

その時、ごとごとと重い足音がして、宿の主人が両手に湯気の立つお盆を抱えてオレ達のテーブルにやってきた。
「そういえばあんたら、人を探してるって言ったね。」
次の皿を運びながら、主人が思いだしたように言った。
オレはふたたび手をとめる。
「ええ。・・・・それがなにか?」
「いやね、他のお客さんから聞いた話なんだけど。もしかしたら、あんたらに関わりのある話かも知れないと思ってね。」
「詳しく話して下さい。」
オレは途端に食欲を失った。






その村は、宿のある街から一日半ほど北へ行った先にあった。
途中、オレは走っていたかも知れない。
祈るような気持ちだった。
リナであってくれ、何度そう唱えたことか。
息子はただ、黙ってついてきてくれた。


村に近付くと、小さな赤い翼を持つ小鳥が群れをなしていた。
枝を張り巡らせた大きな一本の木の上に。
通りすがろうとすると、まるで警告するかのようにそれらが一斉にさえずり始めた。
その異様な光景に、嫌な予感がする、と、初めて息子が呟いた。


取るものも取りあえず、オレは村人の案内で、その人物に会いに行った。
栗色の髪、大きな瞳。
小柄な身体で、記憶を失っているという。
山奥を彷徨っていたところを、偶然見つけた村人が保護したのだ。
「名前は?」
「わかりません。それすら、覚えていないのです。」
「・・・・。」
オレは息子を外に待たせると、その家の中に入った。




そしてまた。
新しい無力感がオレを襲うことになる。
まるで、幸福な夢を見て、目覚めた朝のように。

それは確かに姿形がリナに似た少女ではあったが。
オレのリナじゃなかった。
息子の前で首を振るオレの背後で、また赤い鳥が嘲笑うかのようにさえずっていた。








「・・・・・・・!」
オレはまた飛び起きた。
村人が親切にも用意してくれた空家のベッドの上で。

傍らを見やると、息子は寝息を立てて眠っていた。
オレはため息をつく。
心臓はどくどくと高鳴り、頭はがんがんと何かで叩かれているようだった。
額の汗を拭おうとして、冷たいものに気がついた。
それは、目からとめどなく溢れる、オレ自身の塩辛い涙だった。

気がつくと、オレはベッドを抜け出し、一心不乱に森の中を走っていた。
はだしで、剣も持たず、防具もつけず、上半身裸で。
はあはあと吐き出される息は、まるで自分のもののようではなくて。
夢の続きを見ているかのように、まったく現実味がなかった。
どうして自分が走っているのか、
どこへ行こうとしているのか、
何をしようとしているのか。
まったくわからなかった。


森を抜けると、唐突に草原が目の前に開けた。
満月に照らし出された、だだっぴろい草原が。
オレの足は自然に止まり、狂気のような脱出行はそこで途切れた。


満月は呆れるほど大きくて。
呆れるほど丸くて。
呆れるほど完全で。
まったく半分が欠けてしまっているオレは、何も言えなくて。



さっき見た夢の中で、リナがオレにこう言ったのだ。
『もう探さなくていい。』と。
その小さな手でオレの肩をぽん、とひとつ叩くと、柔らかに微笑み、言ったのだ。
『もう、探さなくていい。』と。

イヤだ。
イヤだ。
絶対にイヤだ。
死んでも、たとえ自分が倒れても、
オレはお前を見つけだすまでは、絶対にやめない。

・・・・そう、思っていたのに。

何も言えずつったっているオレを残し、彼女は遠くへ去った。
オレを責めようともせず、
なじろうともせず、
ただ微笑んで。

そしてオレは逃げ出してきたのだ。
そんな夢を見てしまったオレ自身から。
リナの口から『もう探すな』という言葉を聞いてしまったそのベッドから。
一刻も早く逃げ出して、夢は夢だと、現実ではないのだと、誰かに笑ってほしかったのかも知れない。
涙は止まる先から、苦く、熱く、また滲みでる。
・・・・ウソだ。
まるっきりウソに違いない。
夢が願望の現れだなどと、オレは信じない。
信じたく、ない。



満月はどこまでも明るく、オレの心の奥底まで照らし出すようだった。
逃げ出す前に見た、息子の顔。
もう10才だ。
10年も、オレはこんなことにあいつをつき合わせてきた。
10年もひっぱり回してきた。
母親のいないこの子は、暖かい手料理の味も、寝る前に本を読む優しい声も知らない。
オレは何よりも、この子を幸せにすることを第一に考えなければいけないのに。
何かを犠牲にしてきた気が、いつもしていた。
息子の顔を見るたびに、小さな罪悪感が疼くこともあった。
ただ、自分の胸の半分をもぎ取っていってしまった、世界で一番愛しい女を探すために。

もうダメだ、と。
 
今すぐ地面に身体を投げ出して、もうこれ以上歩けない、と。
お前のいない世界に絶望して、ただ生き続けるだけの人間になってもいいか、と。
胸を引きちぎり、涙と暖かい血を捨てて、道端の石ころに身をやつしてもいいか、と。

叫び出しそうな咽をぐっと詰まらせ。
オレはただ、力なく立ち尽くしていた・・・・・。






このお話は、親サイドと子供サイドが交互に展開しています。
次は子供サイドの一話目になります。
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