「おかえり。1」



父さんの異変に気がついたのは、つい最近だった。
だけど、本当のところはわからない。
ぼくがすこし大人になってきたから、そんなことにも気がつくようになっただけなのかも知れない。
・・・・・・・きっと。
母さんを失ってから。
父さんは少しずつ、おかしくなっていたのだろう。





時折、父さんが隣のベッドで、うなされているのをぼくは知っている。
いつも同じ言葉を叫んで、父さんは目を覚ますのだ。
それは苦しそうな。
そして、これも最近知った言葉だけれど。
『切ない』声。
ぼくは知っている。
その言葉が、母さんの名前であることを。

父さんは目覚めると、決ってぼくが起きているかどうか確認する。
ぼくが起きて、声をかけると、これも同じで『何でもない。』と答える。
本当に何でもないという顔で、笑顔を見せることもある。

だけどその笑顔は、ぼくのために無理矢理作ったものであることも、また、ぼくは知っているのだ。
何故なら、ぼくが眠っているふりをしている時。
父さんは長い長いため息を吐き。
頭をかき。
そして両手で顔を覆って。
いつまでもいつまでもそうしているのだから。






ぼくにとって、母さんという人はどういう人なんだろう。
ぼくは時々考える。
ぼくが生まれてすぐ、母さんはいなくなってしまった。
だからぼくは、母さんの顔を知らない。
知っているのは名前と、力のある魔道士だったということぐらい。
父さんはあまり、母さんの話をしなかった。
ぼくも何だか聞きづらかった。

一度、根掘り葉掘り聞こうとして、父さんも快く答えてくれたことがあった。
母さんの話をする時、父さんの顔はとても輝いていて、嬉しそうだった。
見ているぼくまで、幸せな気分になるぐらいだった。
だけど話の途中で、父さんはふっと笑顔を止め、黙って外へ行ってしまったのだ。
それからぼくは、父さんに母さんのことを尋ねるのはやめた。
父さんが辛くなることは、したくなかったからだ。

その時、ぼくが新しくわかったことは。
父さんは強くて、大人で、まるで岩みたいにどっしりした、大きな人だと思っていたけれど。
そしてその強さは、母さんを思うからこそだと思っていたけれど。
こんなにも、弱い一面が父さんにもあるんだということを。
母さんは。
父さんにとって。
強さの素であり、そして、弱味でもあるということを。
父さんも一人の人間で、大きくなった子供であるということを。
ショックでもあったけれど。
ぼくは知ったんだ。

顔も知らない、声も聞いたことがない、どんな人なのかもよく知らない。
ただ、ぼくを産んでくれた人。
そして、ぼくの大好きな父さんが、世界で一番愛した人。
そして、ぼくの大好きな父さんを、大好きになってくれた人。
ぼくの知ってることはそれだけで。
母さんが一体、ぼくにとってどんな人なのかは。
いくら考えてもわからなかった。






だから、ぼくはいつ言い出そうかと迷っていた。
父さんは決して聞いてくれないだろう、一言を。
『母さんを探すのは、もう、やめよう。』という一言を。

父さんが母さんを探し続けるなら、ぼくはどこまでもついていくつもりだった。
それは父さんにとって必要なことだったし、母さんを探さない父さんなんて、想像がつかない。
父さんの中にはいつも母さんがいて、父さんが父さんであるためには、母さんが必要なんだと、ぼくはずっと思っていたのだ。
・・・・・だけど。

父さんが夢にうなされる回数が少しずつ増え。
気のせいだろうか、顔色も悪くなっているみたいに見え。
ぼくの大好きな、あの太陽みたいな笑顔が曇り空になり。
ぼくと競争で食べていた食事が、どんどん減っていった。
父さんは気づいていない。
けれど、ぼくは。
父さんに変化が起きていることを、知った。

だからぼくは迷っていたのだ。
もうやめよう、父さん、と、言い出すことを。
だってぼくにとって、今のぼくにとって。
一番大事なのは。
父さんだったからだ。
母さんを忘れたわけじゃない。
母さんを探したくないわけじゃない。
でも。
まるで命の火を燃やすように、必死に母さんを探す父さんを。
見るのが少し辛くなって。
次第に弱っていき、いつか倒れるんじゃないかと思うと。
不安で。
不安でたまらなくなって。
ぼくは母さんばかりか、父さんまでも失うんじゃないかと思って。
すごく、怖くなったんだ。





そんなある日、宿のおじさんが思いだしたように父さんに言った。
「そういえば、あんたらが探しているような人物かも知れない。」って。

ぼくはその時、思わず叫び出しそうになっていた。
お水を飲んでごまかしたけれど。
ホントはこう言いたかった。
大きな声で。
やめてよ、と。
もう父さんをひっぱり回さないで、と。
父さんに期待をさせないで。
最後に必ず裏切るような、見せかけだけの夢を見させないで。
母さんじゃないとわかった時の、あの辛そうな顔をさせないで。
辛いのに、無理してぼくにくれる、あの笑顔をさせないで、と。

いままで、何度そんな笑顔が浮かべられたことだろう。
そのたびに父さんは、元気をすり減らし、力を失い、本物の笑顔を消していくのだから。





そしてやっぱり。
その村も違った。
記憶を失ったというその人は、父さんの母さんじゃなかった。
ぼくの、母さんじゃなかった。
父さんは首を振り、笑顔を浮かべようとした。
でも、できそこないの、疲れた顔しかできなかった。
ぼくは目をそらし。
それを見ないようにした。


ぼくはぼくの胸に向ってきいた。
父さんに、母さんを諦めるよう、言ってもいいだろうか?と。
父さんと同じように。
ぼくの胸にも、母さんの声が聞こえるかも知れないと思って。
顔も知らない、声も知らない母さんだけれど。
ぼくは願った。
ぼくは頼んだ。
ぼくは祈った。

父さんを。
解放してあげても、いいでしょ?って。

ぼくの胸は。
何も答えてくれなかった。






その晩。
父さんが寝床を抜け出した。
はだしで、剣も持たず、無我夢中で走って。
ぼくは剣をかかえ、その後をつけた。
いつもの父さんなら。
ぼくがつけていたことなど、すぐにわかっただろう。
でも父さんは気づかなかった。

立ち止まったところは、満月のよく見える草原で。
ぼくは、父さんが膝を折るのを見た。
肩が、震えていた。


今度はぼくが走った。
父さんを残し、その場から一目散に。
森を抜けて、砂利道を越えて、宿代わりの空家へ向って。
見てはいけないものを見てしまった気がした。
見たことを絶対に、父さんに知られてはいけないと思った。
・・・・その背中が。
すごく小さく見えたことも。


寝床に戻り、毛布を頭から被って眠った。
眠れないかと思ったけれど、目が覚めたのだから眠っていたのだろう。
朝になっていた。
ふと隣を見ると。
父さんは戻っていなかった。

窓の外で、ちちち、と赤い小鳥が鳴いた。











次のページに進む。