「人魚の島」


 
 
波の音が聞こえる。
 
寄せては返し。
寄せては返し。
繰り返し囁く、愛を告げる言葉のように。
寄せては返し。
寄せては、返し。
 
 
眠る彼女を起こしたくなくて、そっと頭に唇を寄せた。
ベッドを抜け出そうとすると、細い腕が何かを探そうとしてからみつく。
懐に抱きよせ、軽くため息をつき。
起きるのを諦める。
そのまま、静かな朝の光を浴びつつ、ふたたびまどろむ。
彼女が目を覚まし、身動きするその時まで。
 
 
あの夜が訪れるまで。
それはごく普通の、ありふれた朝の記憶にすぎなかった。
 
だが今は。
 
時を経て少しずつ、色を失ってゆく。
髪の感触、香すら。
彼女の素肌の温度さえ。
 
そしてまるでそれに命をそそぎこむように。
何度も何度も蘇らせようとしている、自分がいた。
 
 
 
 
ガウリイは突然、目を覚ました。
それとともに気付く。
たった今まで見ていたものが、夢だったということを。
だが、夢の内容を思いだそうとしても、全く浮かんではこなかった。
 
辺りを見回す。
白い壁。
木の床。
窓が開いている。
薄いカーテン。
揺れている。
 
何かをこするような音。
絶え間ない。
繰り返し、大きくなり、やがて途絶える。
また繰り返し。
 
波の音だと、やっとわかった。
潮の匂いがする。
 
がちゃりと部屋の向い側のドアが開く。
現れたのは、小柄な女性。
「起きたのね。おはよう。」
手に水の入ったコップが乗った、銀の盆を持っている。
 
近付いてくる女性を眺めながら、ガウリイはこめかみをおさえる。
「どうしたの?頭でも、痛い?」
女性は盆をベッドの端にそっと起き、身を起こしたガウリイの隣に腰をかける。
「大丈夫?」
冷たい、細い指が、ガウリイの腕に触れる。
「ああ。」
ガウリイは目を閉じて答える。
「なんだか、長い夢を見ていたみたいだ。」
 
水の入ったコップが手渡される。
ガウリイはそれを口にする。
「夢って、どんな?」
傍らの女性が微笑む。
空のコップを手渡し、ガウリイは微笑み返す。
「忘れた。」
「ま。」
 
部屋の中に、女性の笑う鈴の音のような声が谺する。
 
「相変わらず、面白いことを言うのね。」
「相変わらず?」
「ええ。あなたは、出会った頃と全然変わらないわ。」
「出会った頃?」
「覚えてないの?助けてくれたでしょ。山賊に囲まれたあたしを。」
「・・・ああ、そうだった。」
「あたしに向って、あなたは『お嬢ちゃん。』って言ったのよ。」
「・・・そうだったかな。」
「『グラマーな美女かと思ったのに。』とまで言ってたわ。」
「よく覚えてるなあ。」
「あなたと違ってね。こちらには優秀な頭脳が詰まってますから。」
「それじゃ、かなわないな。」
「ええ。かないませんとも。」
 
豊かな髪に、朝の光を反射しながら、女性は笑った。
「あなたは一生、あたしにはかなわないのよ。」
その顔を眩しそうに見つめ返し、くすりと笑うガウリイ。
「ああ。まったく、えらいヤツを助けちまったもんだぜ。」
 
するりと腕の中に、滑り込んでくる小さな身体。
腕を回し、何よりも大切なものを抱えるように、それを抱き締めるガウリイ。
「どこにも行かないでね。」
意外なことを、女性は口にする。
なかば驚き、なかば喜び、ガウリイはその頭に頬を寄せる。
「なぜ、そんなことを?オレはどこにも行かない。お前とずっと一緒だ。」
「・・・約束するだけなら、簡単よ。あたしは、確かな証拠が欲しいの。」
「何をもって証明する?言葉が信じられないなら、行動で信じてもらうしかないな。」
「では、行動をもって。」
「いつから?」
「たった今から。」
「いつまで?」
「これから先も、ずっと。」
 
窓の向こうで、カーテンはなぶられるように揺れていた。
 
 
 
昼下がり。
 
彼女と腕を組んで、海岸の散歩に出かける。
貝殻を拾うなら朝よね、と言う彼女。
そう言いつつも、時たま腕を離れ、波打ち際からひとつふたつ、桜色の貝殻を拾い上げる。
まるで宝物を見つけた子供のように。
無邪気な仕種でそれを見せびらかす。
そうしてどこまでも続く、長い海岸を。
2人はそぞろして歩いた。
 
夕飯。
 
彼女の手料理に舌鼓を打つ。
明りはテーブルに飾られた、三つ又の燭台にかけられた蝋燭だけ。
ちらちらとまたたく照明は、自然に眠りに誘っているようで。
食べ終わる頃には、ガウリイはベッドが恋しくなる。
彼女は笑い、ドアを開いてガウリイを誘う。
その手を引いて、ベッドにたどりつくと。
まるで暖かい海に潜り込むように。
倒れ込む。
沈み込む。
 
それから先のことは、朝になるとまったく覚えていない。
 
 
「なんでもないことが・・・・」
「え?なにか・・・言った?」
「いや。」
 
テラスで、彼女はガラスの蓋のついた、仕切りのたくさんある平たい箱を前にしていた。いつもの散歩で拾ってきた貝殻を取り出しては、そこにひとつひとつ並べているのだ。
いつかこれが一杯になったら、蓋を閉めて部屋に飾るのだと言う。
 
テーブルの向いで、ベンチにあおむけになったガウリイは、時折ちらりと彼女を盗み見た。
 
何でもないことが。
何でもない、日常の風景が。
何より代えがたい、そんなこともあるのだと。
 
ガウリイは目を閉じる。
 
 
はっとして、目を開いた。
 
何故、自分はそんなことを?
これは単なる日常の風景。
ありふれた、繰り返される、光景。
何よりも代えがたい?
何かと引換えにしなければならないことでも?
そんな切羽詰まったことが、今のこの、平和な毎日の中に潜んでいるとでも?
ガウリイは首を振る。
考えすぎだ。
どうかしている。
 
 
 
空はいつでも曇っていた。
青い空は、もうずっと見ていない気がする。
変だな、とぼんやりと思う。
この島に住むようになってから、もう随分経つのに。
・・・・島?
ここは、島なのか。
一体・・・・何と言う島だ?
 
「え?」
「だから。今、オレ達がいるこの島・・・・名前はなんて言うんだっけ?」
「・・・」
昼食を取りながらの、無邪気な質問。
サラダをよりわけている、彼女の手が止まる。
「何故そんなことを、今?」
「いや、なんとなく。」
「・・・」
ガウリイは、彼女の顔を見た。
 
それは突然、彫像のように映った。
動かない、喋らない、呼吸しない、ただの岩の塊。
名工が彫り上げたであろう、ごく緻密で、精巧な作品ではあったが。
生命が、感じられなかった。
 
だがそれは、ほんの一瞬。
女性はまたころころと笑い、サラダフォークをぷらぷらと振る。
「やあね。また忘れちゃったの。あなたらしいといえば、あなたらしいというか。
ここはメルチャディス。・・・・メルチャの、住む島よ。」
「・・・メル・・・?」
「デザートは?ケーキを焼いておいたの。」
「・・・ああ。もらうよ。」
「良かった。」
 
赤味がかった髪が、テラスからキッチンへと続くドアの向こうへと消える。
ストロベリー・ブロンドと言うのだと、誰かが言った。
・・・・?
誰が、言ったんだろう。
 
 
 

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