『消さない痛み』



 
さながらそこは、荒波が絶え間なく打ち寄せる海岸のようだった。

突然の激しい雨は視界を覆いつくし、全ての音を凌駕しようとしている。
ばららばらばらっ………
雨粒が地面を叩く音が耳を聾する。
まるで雨というよりは、小石が空から降りつづけているようだった。
 


「ガウリイっ!いいから離しなさいよっ!
あたしは大丈夫だからっ!!」


雨音に負けないよう、小柄な少女が必死で声を張り上げていた。
肩から下がったマントは、端があちこち引き裂かれているが、ぐっしょりと濡れて重そうだ。
少女の栗色の髪も頭にべったりとはりつき、濡れた子犬を連想させる。

「………大丈夫なわけないだろっ……!」
少女の手をつかみ。
必死に引き上げようとしている青年が一人、崖の上に腹ばいになっていた。
長く伸ばした髪は、滝のように頭と背中を覆い、さらに地面へと流れて泥にまみれている。
谷底は灰色にけむり、どれほどの深さがあるかもわからない。

「お前は今っ………魔法が使えないんだからなっ……!」
青年が苦痛に顔を歪める。
目立った外傷はなかったが、負傷していることは間違いなさそうだ。
「‥‥‥‥‥!」
相棒の様子を見て、同じように顔を歪める少女。

 
二人の周囲には、すでに息絶えた魔物らしき体がごろごろと転がっていた。
そのすべてに創傷があり、微かに紫の煙を立ちのぼらせているものもある。

雨音はさらに激しくなってきた。
次第に、崖下へ流れ落ちる水量が増えてくる。
赤茶けた地面には、小さな川が幾筋も生まれていた。
 
「このままじゃ、二人とも落ちちゃうわよっ!」
まともに顔の上に落ちてくる雨だれに目をしばたたかせ、少女が声を張り上げる。
「そんなの不合理だし、何の利益もないわ、ただの犬死によっ!
別にあたし、恨んだりしないから、手を離してっ!
落ちどころが良くて助かるかも知れないでしょっ?
そしたら助けに来てくれればいいからっ!!」
生か死かの瀬戸際に似合わぬ、相手への叱咤罵倒だった。
青ざめた顔の青年は、吠えるように言葉を返す。
「そんなの関係ないだろ!!
はいそうですかって、オレが手を離すと思うのか!?」

青年の応えに、少女は苛立たしげに首を振る。
何とか岩肌に手が届かないか、何度目かの挑戦を繰り返した。
崖はオーバーハングで突き出しており、その下は奥へと窪んでいて、あと少しのところで手が届かないのだ。
痺れそうな指先を何度も何度もかすめ、それでも諦めない少女。
「元はといえば、あたしが悪いんだからいいのよっ!!
こうやって話してるうちに落ちちゃうわ!!
いいから離してってばっ!!」
「ダメだ!」
 
ずる、ずる、と青年の体が、崖へと引き寄せられる。
脆くなった地表が滑り始めているのだ。
 
「ガウリイ!!」
溜まらず叫び声をあげる少女。
見上げた先には、暗く沈む空と、青ざめた相棒の顔。

無理矢理にでも離れようか、そう思った時。
目の前の青年は、小さく微笑んでこう言った。
「頼むから。オレの目の前で、二度も落ちたりしないでくれ。」
「…………………!」

 
少女が息を飲んだその時、青年の体がびくりと震えた。
彼は一瞬目を閉じたが、手を離そうとはしなかった。
「………ガウリイ!?」
異変に気づいた少女が体をひねって上を見上げる。
「…………大丈夫だ……………」
食いしばった歯の隙き間から押し出されたような、低い声が聞こえた。
「………今………引き上げてやるからな………っ………」

青年は目を開き、体を支えていた腕をあげ、力いっぱい地面に叩き付けた。
ざくっ!!
その手に握られた、紫の燐光を放つ剣が深々と大地を穿つ。

「もう………あんなのは………ごめんだからなっ………!!」
 
 
 
 




†††††††††††

 

小一時間たっても、雨はまだ降り止まずにいた。
 
張り出した岩の陰に、ぐったりと体をもたせかけている青年の姿があった。
長い金髪は濡れて黒ずみ、ほとんど顔を覆ってしまっている。
同じように疲れて体を伸ばしていた、小柄な少女の方が目を開け、傍らの相棒を見上げた。
「………………………」
青年は意識がないように見えた。
規則正しく胸は上下しているが、顔は青ざめたまま、呼びかけても反応がない。
 
何かを思いついた少女は、肩の防具からマントを引き抜いた。
雨で重たくなったそれを、張り出した岩の上からカーテンのように垂らし、岩をいくつか拾ってくると、飛ばされないよう重しにした。
暗幕のような簡易テントだ。
だが、背の高い相棒の足は、テントからはみだしてしまっている。
長い臑を持ち上げるようにして膝を立たせると、ようやく青年が気がついた。

「……………リナ……。」
名前を呼ばれた少女は、はっとして振り返った。
「気がついたのっ……?」
這うようにして近づくと、青年はテントを見回し、次に苦労して次の言葉を発した。
「…………お前………怪我は…………?」
「………………………!」
 
少女は唇をきゅっと噛み、怒鳴りつけたくなるのを我慢した。
一呼吸おいてから話し出す。

「怪我してるのはあんたの方でしょ……?
そんなになってまで、あたしの心配しないでよね………。」
言葉とは裏腹に、声が少し優しくなった。
にじり寄るようにして相棒の隣に腰を降ろし、防具の留め金に手をかける。

「ここは………?まさか………お前…………」
かちゃかちゃと音がして、肩の防具が外される。
「ここまで、オレを引っ張って………?」
崖の上に少女を引き摺りあげてから、その先の記憶が青年にはなかった。
「………そーよ。いつまでもあんなところにいられないでしょ。」
てきぱきと素早い動作で外されていく防具と、いつにもまして小柄に見える少女に、驚きの眼差しを送る青年。
「よく……ここまで………。」
「まあね。火事場の○ソ力ってやつよ。………失礼。」
 
少女は青年の胸の防具を外すと、手袋を脱ぎ、そっと手を這わせる。
「ここ……痛む?」
「!」
少女の指先が軽く押しただけで、青年は眉を寄せた。

「よくないわね………。骨が折れてるかも………。」
つとめて冷静な声を装っていたが、その目は心配と後悔に沈んでいた。
「ったく………無茶なんだから………。
いつもあたしに無茶するなって言う割に、あんた自身は結構無茶よね。」
「………そうかな…………。」
「そうよ。…………でも。助けてくれて、ありがと。」
「………………………。」
少女の素直な一言に、青年は片手を頭に伸ばすことで応えようとした。
「いいわよ、動かないで。安静にしてて。」
言葉にしなくても、彼が相当の痛みを我慢していることはわかっていた。
早く助けを呼ばないと。
 
視線をずらした彼女の目に入ったのは、膝を立てた彼の足の裏側だった。
「!」
ブーツが溶け、内側のふくらはぎが見えている。
それも、赤黒く焼けただれているのだ。

「ガウリイ!まさか、これっ……」
自分を支えていた時、一瞬、彼の体がびくりと震えたことを思い出した。
まさか。
まだ魔物が生き残っていて、炎を彼に浴びせていたとは。
「っは、早く言いなさいよねっ………!」
少女の頭の中で、見るも無惨な傷口と、自分の腑甲斐無さが渦を巻いた。
口早に罵ると、一か八か、治癒魔法を唱え出す。
 
『治癒(リカバリィ)!』
 
小さな、小さすぎる光が両手の中に生まれた。
そうっと傷口に当てると、ぽうっと輝きを増す。
だが、いつもの何倍も小さく、傷は一向に変化を見せなかった。
「ダメか………!」
 
舌打ちし、少女は魔法を解いて、相手の頬にそっと触れた。
「近くの村から助けを呼んでくるから、それまでここで待ってるのよ。」
「…………大丈夫か……………。」
「あたしは大丈夫。あんたの方が大怪我なんだから。
………あたしが、魔法さえ使えたら………。
治癒の魔法で、少しでも痛みを取り除いてあげられるんだけど…………。」
手を引っ込めた少女の頭を見つめていた青年は、苦心して手を伸ばし、それを撫でた。
「いや………いい。
痛みを感じるってことは、生きてるってことだからな……。
………それに、お前さんが無事だったってことは……
………最大の痛みは、避けられたってことだ……。」
「…………………?」
その言葉に、いぶかしげに眉を寄せる少女。
青年は少女の頭に、こつんと拳を当てた。
「お前さんが……目の前で落っこちまった……
あの時の方が、オレには何倍も………痛かったから………。」
「…………………!」
 

『オレがどんな気持ちだったか、少しは…………』

 
過去の言葉が蘇る。
風に乗って聞こえてきた、かすかな絶叫とともに。

 
息を飲み、少女はそれをごまかすために咳払いする。
「……覚えてたんだ。ガウリイ。」
「…………ああ。」
拳を引っ込め、体中から力を抜き、青年は再び目を閉じた。
「痛みってやつは………後になっても………結構覚えてるもんだからな………。」
「……………………………。」

 
雨が小やみになった。
東の方角から空が明るくなり、遠くの野原に陽射しを降ろしていた。
灰色にけぶる景色が、その区画だけ奇妙に鮮やかに見える。

「………帰ってきたら、ちゃんと謝るから。
だから、ちゃんと待っててよ。すぐ戻るからね。」
立ち去りがたい気持ちを押さえ、きっぱりと背中を向ける少女。
動き出す前に、その小さな背中から、こんな言葉が漏れてきた。
「見てるだけの、こっちの方だって痛いんだから。」
「……………………!」
間髪を入れずに黒いマントがぱっとあがり、少女の姿は消えていた。
 


一人、暗幕に取り残された青年は、微かに笑うと。
それまで我慢していた苦痛を顔に顕わにし、ごろりと横になった。
体を丸め、溜息を長々と吐き、歯を食いしばる。

だが。
不思議とその顔には、安らぎに似た表情が浮かんでいた。
濡れた髪の隙き間から、低い声が囁く。
「…………痛みのない人生なんて、ただの夢を見てるのと……同じだ………。
この痛みが…………教えてくれるのさ…………。
自分が傷ついても構わないほど………………
もっと大事なものが……オレにもあるんだってな………。」
 


人間もその中に含まれる哺乳類は、基本的に痛がりだ。
一度覚えた痛みは、次からなるべく遠ざけようとする。
そして命の危険を回避してゆくのだ。

生への執着が強いと言い代えてもいい。

痛みは、危機を知らせる警鐘であり。
なおかつ、生きていることを実感させる瞬間でもある。
 
かつ、驚くべきことに。
その警鐘を無視してまで、命に関わる危険を押してまで。
他者を助けようとする。
それもまた、哺乳類の持つ不思議の一つでもある。

 


 
雨が止み、空がすっかり晴れ上がり、山の端に虹がかかる頃には。
数人の男達が担架を持って駆け昇り。
その一団の先頭を、誰かが転がるように走ってきた。
それは青い顔をした、小柄な一人の少女だったそうだ。

呟き、痛みをこらえる青年の元に、その大事なものが戻ってくるのには。
そう長い時間は、かからなかった。



生きている実感が君にないのなら。
自分の体の痛みに目を向けて。
相手の痛みに思い代えて。

いつか知るだろう。
体の痛みより、さらに痛いものが君の中にあることを。
その時から、君は自分の命に意味を見い出す。
生きていくことに、意味を見い出す。

そしてようやく。
生きている実感を手にすることができるのかも知れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






 
-------------------------------the end.
 
子供の頃、転んですりむいた思い出、誰にでもありますよね。犬に噛まれたり、猫にひっかかれたり、兄弟と取っ組み合いのケンカをして、叩かれたり蹴られたりして痛かったこと。
 
それは、生きていくのに重要な痛みなんだそうです。叩かれたら痛い、そんな経験がない人間は、自分が叩いたら相手がどんな痛みを覚えるのか、感覚的にわからないそうです。わからないから、気にしない。想像もしない。思いもつかない。だから平気で人や動物を傷つけてしまうのだと。
 
生まれつき痛みを感じない先天性の障害もあります。これがまた怖くて、骨折してもわからない、ストーブによりかかっていても熱さを感じずに大火傷を負ってしまう。痛みとは、自分の生命を守る上で重要な危険信号なんですね。
 
まあ、痛いのは誰でもイヤですが(笑)
痛点があるのに痛みを知らない人間にはなりたくないですね(笑)


さて、しばらく更新をお休みしていましたが、夏の原稿も終わったところで(笑)ようやくまたぼちぼちと続けて行けるようになりました(笑)待っていて下さった方、ありがとうございました♪これからもどうぞ、よろしくお願いいたします♪

では、ここまで読んで下さったお客様に、愛を込めて♪

タンスの角に小指だけぶつけてツメが割れた、書類を揃えようとして手を切ってしまった、空ミシンで手を縫ってしまった、などなど。
つい自慢げに話してしまう、ほほえましい痛みの記憶はありますか(笑・川原教授のマンガにもあったなあ)
そーらがお送りしました♪
 


感想を掲示板に書いて下さる方はこちらから♪

メールで下さる方はこちらから♪