『君に伝えるこの気持ち』


 
 
初めて生まれたこの気持ちを。
相手に伝えることが。
ひどく難しいと思った夜だった。
 
 
 
春はあけぼの。いや、夕暮れ。
または夜。
ほのぼのと沈む夕陽はいつしかすっかり姿を隠し。
とっぷりと夜に覆われた小さな町。
通りを歩く人もやがて途絶え。
楽しそうな笑い声がときおりあがる家の中。
黄色い光が漏れている。
 
「……………。」
あたしは飽きもせずに眺めていた。
ゆっくりと変わる景色を、食堂の窓から。
場所を移して部屋に来たときも、その窓から。
心地よい風がゆっくりとカーテンを揺らす。
その向こうを。
「で、結局どうするんだ?」
背後からのんびりとした声が聞こえた。
ここはガウリイの部屋だから、それは当然ガウリイの声だった。
あたしはかすかな笑みを浮かべたまま、振り返る。
「え?」
「え、じゃなくて。明日どっちへ進むか、決めに来たんだろ。」
「あ、そっか。」
 
テーブルの上には、一枚の地図。
この町の小さな雑貨屋でようやく手に入れたこの地方の詳細な地図だった。
御丁寧にグルメガイドまでついている。
これを眺めつつ、明日はどこへ行こうか、それを話しにガウリイの部屋に場所を移したのだった。
そんなことはすっかり忘れていたあたし。
いかんいかん。これじゃガウリイ並の記憶力を誇ることになってしまふ。
「そうねえ………。この街道をまっすぐ行けば、次はこの町よね。ふむふむ。密かに地酒で有名な町なわけね。」
「オレはそれでもいいけど………。お前さんはちょ〜〜っと早くね〜か?酒にこだわるの。」
「ん〜まあ、飲めないこともないけど?でも地酒でつられるほど好きってわけじゃないし。どっちかとゆ〜と、おつまみの方が…………」
「さらにどっちかとゆ〜と、食事の方だろ。」
「そゆことv」
 
地図をはさんで、テーブルのこちら側とあちら側。
あたし達は額を寄せ合うようにしてのぞきこむ。
「あ、ほら。この街道を、ここでちょっと外れて、んでこの林をつっきると、川を渡ればこっちの村へも行けるわよ。川もそんなに大きくなさそうだし、橋のマークじゃない?これ。」
「どれどれ。…………へ〜〜〜、ホントだ。橋っぽいな。」
「でしょ。こっちの村は、宿屋は一軒しかないみたいだけど、絶品の魚料理が出るって。それに果物が名物みたいだから、デザートもいけそうね。」
「食事で選ぶなら、こっちってわけだな。」
「ん〜〜〜〜。でも、悩むわね………。こっちの村へ行っちゃうと、次の町まで行くには、一旦元来た道をたどって街道まで戻らなくちゃダメなのよね。二度手間って気がしないでもない。」
「はあ。」
「街道添いに行った方が楽は楽だし。橋だって、マークはあるけど行ってみたらありませんでした〜〜ってこともままあるし。」
「へえ。」
「この地図だって、いつ書かれたものかわかんないでしょ。100%信用できるかって問題もあるし。」
「ふうん。」
「………ちょっと。さっきから生返事ばっかり。ちゃんと考えてる?」
あたしは顔をあげ、ただあいづちを打つばかりのガウリイを見上げる。
 
同じ高さの椅子に座ってるのに、やっぱりというか何というか、ガウリイの顔は見上げなくちゃいけない。
ほほほ。これもあたしの足が長いって証拠ね。…………などとほくそ笑んでいる場合ではなかった。
同じ地図をのぞきこんでいた二人の距離は、とっても近かったのだ。

どきんっ。

わけもなく息がつまる。
「ん?ちゃんと聞いてるぞ。」
ガウリイも顔をあげ、あたしをまじまじと見つめる。
何でこのテーブル、こんなに狭いのよ。
近すぎるわよ、あんた。
「そ、そっ。な、ならいいけどっ。」
何どもってるかな、あたし。
 
「それにしても珍しいよな。」
ガウリイがまた前屈みになり、にこりと笑った。
こらこら。そんなに屈んだら、もっと近くなっちゃうでしょうが。
静まれ、心臓。
「な、なにが?」
「いや、こんなに熱心にリナが行き先を考えるのもさ。」
「そ、そう?」
「いつもは、割と即決だろ。よし決めたっ!ってさっさか進んじまうだろが。」
「そ、そんなことないわよ。いつも一応はあんたにも行き先聞くでしょ?」
「え〜〜〜、そうだっけか?」
「ま、まあ、その、目的が最初からあったりとか、急いでるときとか、あんたが聞いてないって時はその、省略することはあったかもしんなくはないかも知れないけど〜〜〜〜…………。」
「…………あったんだな。」
「ごほごほ。」
「だから珍しいなって言ったんだ。今日はどうしたんだ?」
「べ、別にっ。たまにはちゃんと相談しようと思っただけよ。あんたにも選ぶ権利はあるわけだし。」
「たまには…………ほらやっぱり。そうじゃないか。」
「ごほごほ。こ、細かいことはこの際いいじゃないのよ。」
 
確かに今日のあたしは、ちょっと珍しいかもしれない。
窓からの景色があんまり気持ちいいので。
ゆったりとした気分になっていたことは確かだ。
………でも。同じ景色を眺めるなら、自分の部屋からでも良かったはず。
何であたし、ガウリイの部屋に押し掛けて、いつまでも居座ってるんだろ?
 
「ま、悩むようだったら、明日の朝決めたらどうだ?
宿の人にでも評判を聞くとかさ。」
「そ…………………そうね…………うん…………。」
話をまとめるガウリイの言葉に、素直にあいづちが打てないあたし。
ホントにどうしたんだろ。
くどい会話は好きじゃない、一方的にあたしがシメることの方が多いのに。
ガウリイが不思議そうな顔をしてる。
「どうした?何かひっかかることでもあるのか?」
「え?あ………いや………そういうわけじゃないんだけども…………。」
 
いつもだったら。ここで地図をささっと丸めて、おやすみっとばかりに部屋から出て行く、ただそれだけなのに。
なんか。
………なんか、まだ。
「気になることがあったら言えよ?オレに遠慮はいらないだろ?」
ガウリイが少し心配そうな顔で言う。
「無理して明日出発しなくてもいいんだぜ?この町にいたければ、もう一日くらいいても、別に急ぐ旅じゃないんだし。」
「………………………。」
「疲れたか?少しのんびりすればいいさ。明日の昼まで、部屋でゆっくり眠ってきたらどうだ?」
「…………………。」
あたしが黙って動かないので、ガウリイが地図を丸める。
紐でくくって、筒になったそれで、あたしの頭をぽんぽん、と叩く。
「ほら、これ持って。もう夜も結構更けたし、寝た方がいいぞ。」
「…………………。」
 
差し出された地図を受け取り、無言で立ち上がるあたし。
ガウリイも立ち上がる。
「?」
きょとんとした様子が伝わってくる。
そうだろう。だってあたし、テーブルの前から動かないから。
「リナ?」
 
大きな手が両肩にぽんと置かれたのがわかった。
「どうした?何か…………あったのか?」
これには答えられなかった。
だって何もないし。ガウリイに心配してもらうような、大事件があったわけじゃないし。
ただ。
ただ、何となく。
「別にっ………。ただ……………」
「ただ?」
「ただ……………。」
「?」
あたしはガウリイの手をすり抜け、窓に近付く。
「ただ、その…………。ここからの眺めがいいなって………思っただけよ。」
「?」
のんびりとした風景。
ここちよい風。
いつまでもいたい。
こうして、ここに。
この、部屋に。
「景色なら、自分の部屋からでも眺められるだろ?隣なんだし。」
デリカシーのない言葉があたしの気分をぶち壊す。
こひつ。
オトメゴコロの微妙な揺れを、まったくわかっとらんな。
「そ、そうなんだけど。ほら、なんてゆーかさ。こんなにのんびりするのも久々だし。ほら、景色なんて、一人で眺めてるのと誰かと一緒に見るのじゃ、違ったりするでしょ?」
「……………。」
「も、もう少し、こっから眺めてたいな〜〜〜って。思っただけよ。」
とてもガウリイの方を振り向く勇気はなかった。
少し赤くなった顔は、窓に向けたまま。
「……………。」
 
 
今度は黙ってしまったガウリイが、背後からそっと近付く気配がした。
ぎしりと音がして、窓枠にガウリイがよりかかるのが右側に見えた。
「………確かにな。こんなにのんびりするのは、久々だよな。」
「…………でしょ。」
 
二人で一緒に景色を眺める。
遠くの山が、紺色の影になっている様を。
遠くの方に、薄紫色の細い雲がたなびいているのを。
家の灯が一つ点り、一つ消え。
鎧戸の閉まる音が聞こえる。
どこかで猫が鳴く。
悲しそうではなく、歌うように。
 
非常にリラックスした状態であたしはいた。
でも、眠くはならなかった。
眠る前の幸せなひとときが、永続しているような時間だった。
…………ずっと。
こうしていれたら、いいな、と思うほどに。
 
風が開け放たれた窓から忍び込み、ガウリイの長い髪が、さらりと流れた。
穏やかな景色から、穏やかな顔へと。
自然に視線を移すあたし。
穏やかな景色から、穏やかな顔のまま、あたしへと穏やかな視線を戻すガウリイ。
「……………………」
言葉は出てこなかった。
ただ、沈黙だけが。
ただ、静かな笑顔だけが。
 
目を伏せたガウリイが、片手をあげ。
軽いため息とともに、あたしの頭を撫でる。
素早く笑う。
穏やかに。
あたしも何も言わず。
ただ、撫でられているに任せる。
少し乱暴にわしゃわしゃと撫でられようと。
髪の乱れを指摘するなんて、野暮なことはしなかった。
 
 
 
 
永遠かと思われたのも、たった何秒かのできごとで。
あっという間に、穏やかな時間は終わり。
ガウリイの手が、あたしの頭を撫でるのをやめ、ぽんぽんと二度跳ねる。
「もう遅いから。自分の部屋へ行って休め。」
「………………………。」
永続魔法をかけたい、そんな時間だった。
あと、ほんの少しだけでも。
「………………………。」
 
窓の外が暗かったから。
言えた言葉かも知れない。
顔は窓の外に向けていたから。
「…………いちゃ、ダメ…………?あたし………。」
相手はガウリイだ。
ふんぞり返って、ここにいたいだけいるのだと。
強引に宣言してもよさそうなのに。
あーだこーだと理由をつけて、言葉で言いくるめてしまうことだって。
できたはずなのに。
小細工を思いつかなかった。
遠慮があった。
自信が、なかった。
 
「……………………。」
ガウリイからは、なかなか答えが返ってこなかった。
待つのがこんなに辛いことはない。
言ってしまったことを、ひたすら後悔しつつ、心臓の鼓動を何とか抑えようとあたしは見えない努力を続けていた。
「……………………。」
どうして何も言ってくれないんだろう?
でも、自分からガウリイの顔を見ることはできなかった。
 
ふう、とため息が聞こえた。
笑うかな。ガウリイ。
それとも、説教がスタートかな。
お前なあって。呆れるかな。
 
「ダメだ。」
………………あり?
ストレートな拒否の言葉に、あたしはようやくガウリイを振り返る。
彼はにべもなかった。
「ダメだ。自分の部屋へ戻れ。」
そんな。そんなに素っ気無くしなくても。
「ほら。」
片手が、あたしを部屋から引っ張り出そうと、あたしの腕を取る。
「リナ。」
あまりの素っ気無さに、思わずあたしは尋ねてしまった。
「どうして?」と。
 
腕と手がつながったまま。
あたし達の間の距離は、テーブル越しより近かった。
二人の視線はふたたび出会ったが、そこに笑顔はなかった。
「……………………。」
眉を寄せたガウリイの、青い目がじっとあたしを見つめる。
あたしはどんな顔をしているんだろうか?自分ではわからなかった。
「……………………。」
 
ガウリイが手を放した。
あたしの頭へと伸ばす。
でも、撫でるためじゃなかった。
 
 
 





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