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「リナ=インバースだな。
その名も尊き大司教猊下の御下賜により、お前を連行する。」
林を出た草原で、小柄な人間が一人、めいめい松明を手にした軍馬の円陣に囲まれていた。
揺らめく炎の中に浮かび上がったのは、子供かと見まがう華奢な姿だった。
が、居並ぶ鎧の男達が差し向けた、槍穂のずらりを怯えることなく見渡しているようだった。
真深く被ったフードから、明るい色の豊かな髪が溢れている。
僅かに覗く小さな白い顔の上で、紅い唇がきりりと引き絞られた。
「抵抗せず、大人しくついてくるなら痛い目に会わずに済む。」
ぎらりと光るショートスピアーの穂先がさらに深く差し向けられる。
その場から動けば、咽を突かれるのは必死だった。
「…………ふうん。」
それだけだった。
フードの人物が漏らした最初の感想は。
その声は高く、はっきりとわかる少女のもの。
肩に背負っていた荷物から手を放すと、袋がどさりと地面に落ちた。
「む。」
小隊を率いる隊長が眉をひそめる。
少女が両手を顔の位置まで上げた。
彼は秘かに安堵した。
武器も持たない、年端も行かない少女に槍を向けるに忍びなかったからだ。
騎士らしい心をまだほんの少し持ち合わせている、今では数少ない人間の一人だった。
彼が守る都市では、久しくこの方見なくなった物の一つだ。
だが。彼は見誤っていただけだったのだ。目前の人物を、少女だと。
「あたしをリナ=インバースと知って、こうするわけ。
‥‥‥‥‥甘いわよ。」
上げた手のひらの片方で、少女は一本の穂先に触れた。
はっとした持ち主が身を引く間も与えず、口の中で唱えていた呪文が解放される!
『氷窟蔦(ヴァン・レイル)!』
一瞬ののち、軍馬の列は凍りついていた。
円陣を組んだそのままの陣形で。
松明すら凍りついていた。
辺りは再び闇に覆われる。
少女はまた荷物を背負いなおすと、氷の蔦をひょいひょいと避けながら、苦もなく列から抜け出した。
振り返り、片方の手を差し出して光を生み出した。
揺らめかず黄色い光を投げかける魔法の明りに照らし出された、自分の作品を見回す。
「悪くないわね。
ちょっとばかしアレンジを加えてみたんだけど。
これなら狭い場所じゃなくても使えるわ。」
風が、はらりとフードを払う。
現れたのは、濃赤に輝く宝石のような双眸。
満足げにきらきらと追っ手に一瞥を送り、しばし考えると、彼女は空を仰いだ。
「まだ寒いし、これならしばらく時間は稼げるでしょ。
追っ手がかかってるってことは、人里をしばらく離れた方がいいわね………。」
蒼い月はぽかりとそこに浮かび、何も答えはしなかった。
その時、夜の静寂(しじま)を破って、林の奥から深く長い悲鳴があがった。
いや、悲鳴ではない。
彷徨う狼の遠ぼえだった。
さながらそれは、咽を震わせて歌う哀歌のようだ。
「…………狩りをしてるのね。
ま、朝までに追いついてくれればいいわよ。」
何故か少女は、その声に答えるように呟いた。
この地上で、あの狼が。
昼は人の姿に戻る一人の男なのだと。
知っているのはほんの一握りの人間だけだった。
少女と、男と。
そして、昼と夜の呪いをかけた張本人である、鐘楼の街に巣食う怪物と。
「……!」
背後で、ぱきぱきと氷を踏むような音がした。
ひゅっと空気がうなじをかすめ、リナは咄嗟に横に飛んで交わす。
空になった場所に、槍が飛び込んできた。
「ち、甘かったのはあたしの方か!」
地面に手をつき、体勢を戻した少女が舌を打つ。
軍馬が隙き間なく隊列を詰めているために、氷の蔦の魔法を使ったのだが。
僅かにはずれた一人が残っていたようだ。
「魔女めっ!」
仲間の槍を氷の中から引き抜き、一人の騎士がまた投げようと構えていた。
馬から降り、徒(かち)で走り込んでくる。
「!」
少女は荷物を落とし、両手をぱんっと合わせて魔法の明りを叩き潰した。
月光のみの蒼い闇が降りる。
目標を失った騎士は、槍を投げ掛けたがやめ、手に構えた。
鎧を鳴らして走ることはせず、じりじりと近づいてくる気配。
風を生んで、相手を吹き飛ばすか。
目くらましの光を投げあげて、視力を奪われたところで逃げるか。リナは一瞬躊躇した。
その一瞬で、先手を取られた!
ぱあっ………!
突然、辺りが真っ白に輝いた。
真昼のような光に視力を奪われたのはリナの方だった。
「なっ……!」
「魔道をたしなむのがお前だけと思ったかっ!」
槍を構えた騎士が、地を蹴った。痛む目を押さえ、リナは踵を返す。
ひゅっ!
風が鳴り、突然リナは地面に倒れこんだ。
今度は避けきれなかった槍が、リナのマントを地面に縫い止めたのだ。
「くっ!」
だが、騎士は迂闊に近寄って来なかった。
近づいてくれば気配でわかるものを、とリナは唇を噛む。
「精霊の力を借りた氷の魔呪か。面白い。
今度はお前に使ってやろう。
そして大司教猊下の元へ連れていく。
お前のような魔女は、火刑こそふさわしいだろうが。」
この場から逃れる手は?
必死に巡らせる頭と裏腹に、リナは言葉を紡いだ。
「あたしが火刑にふさわしい?何の罪で?
あんただって魔法は使うじゃないの。ビザンツカヤは魔法を禁止してるわけじゃないのよ。」
「お前は魔法を操り、万人を惑わせ、都を混乱に陥れ、その権利を狙った。万死に値する。」
「あのねっ!誰に聞いたか知らないけど、それはあたしじゃなくて……!」
「大司教猊下おん自らが下された御命令なのだ。疑う余地はない。」
「だから!!その司教がっ……!」
「問答無用!次に目覚めた時は刑台の上と思え!」
これ以上の時間稼ぎは無駄だと、騎士は術を解放しようとした。
ガウッ!!
「ぎゃあっ!」
男は悲鳴をあげ、術を唱える前に後ろに引き倒された。
羽根飾りのついた男のヘルムがゴリゴリと地面を掻き回している。
「やめ、やめろぉっ!がぁっ!!」
「…………!」
リナは目をしばたき、薄れてきた光に目を向ける。
漆黒の被毛に覆われた巨体が、男の喉元に食らいついていた。
激しく揺さぶりをかけ、相手を仕留めようとしている。
「ダメ、殺しちゃ!」
リナは思わず駆け寄り、狼に抱きついた。冷たい夜の匂いがした。
「ひい、ひいっ!」
騎士が情けない悲鳴をあげる。狼の白い牙は揺るがない。
「やめて!ガウリイ!!」
相棒の名を呼び、リナは必死に引き剥がそうとする。
かつての旅仲間は、背の高い、長い金色の髪を持った穏やかに笑う一人の青年だった。
だが、リナと共に司教の呪いを受け、夜はこうして狼に姿を変える。
狼はようやく顎を離し、今度はリナに牙を向けた。
青い目が狩りの色を浮かべ、獲物を突き刺す。
狼でいる時、彼は狼そのものだった。
人でいる間の記憶もなく、夜に昂る野生の本能が彼を突き動かす。
………それなら何故、とリナは思う。
何故、彼は。
この狼は、まるであたしを助けるように現れたのだろう?と。
突き倒され、地面に仰向けに打ちつけられ、振り仰いだ天に星が瞬く。
どしりと腕に獣の体重がかかり。
夜天より暗い黒狼の、蒼星より暗い双眸に、自分を見い出す。
裂けていく口蓋に立ち並ぶ歯列から、渇望の涎液が滴り落ちる。
…………このまま。食べられて。
さすらう夜と昼の旅を終わらせるか?
そんな思いがちらりと浮かぶ。
だが、それはほんの短い間で。すぐに彼女はそんな弱気を打ち消す。
そんなに簡単に。終わらせていいことではない。
約束したのだから。再び元の姿に戻って。
人間に戻った姿で、昼を夜を。共に歩こうと。
「ここで諦めるわけには、行かないのよっ……!」
リナが囁くように口にした途端、狼はびくりと体を震わせた。
「?」
どう、とその狼としては大きい体が倒れる。
「ガウリイっ!?」
ふさふさとした被毛に突き立てられていたのは、槍の柄だった。
「狼は殺していいと言われている………。」
裂かれた咽を押さえ、苦しげに呻く騎士が傍らに転がっていた。
「………狼じゃないっ……!ガウリイよっ……!」
それまで冷静だった少女が、理性をかなぐり捨てた悲鳴に近い声を叩きつけた。
槍は深々と刺さっていて、抜けそうにない。
しかも簡単に抜くわけには行かない。
びくびく、と狼が震える。
呼吸がハッハッとかなり荒い。
「まずいわ………!これじゃ、治癒の魔法くらいじゃっ……!」
とめどなく流れ出す血を押しとどめようとでもするように、当てた手のひらが真っ赤に染まっていく。
「何故だ………狼だろう………ただの……害獣だろう………」
騎士はごほごほとむせ、狼にすがる少女に目を向けていた。
その姿は、彼の目にはひどく奇妙に映ったからだ。
……そういえば。
まるで、この少女を守るかのように。狼は駆けつけてきたのだろうか?
「違う……っ……!狼じゃ………狼じゃないっ………。
彼はあたしの…………あたしの…………」
切れ切れの言葉に、少女の隠せない気持ちが入り交じっているようだった。
その時だった。
静寂を破るもう一つの獣がいなないた。
自ら月光を放っているかのような、白い軍馬が丘を下ってきて、この不思議な構図に加わった。
倒れ、呻く騎士と。
槍に貫かれ喘ぐ狼を、庇うように立ち上がった小柄な少女という。
軍馬から降りたのは、リナよりも小柄な姿だった。
馬と揃えたように白いマント、守りの水晶を縫いつけた白い服の、黒髪のこれまた少女だった。
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