『紅陽奇譚』



   1
 
 「リナ=インバースだな。
 その名も尊き大司教猊下の御下賜により、お前を連行する。」

 林を出た草原で、小柄な人間が一人、めいめい松明を手にした軍馬の円陣に囲まれていた。
 揺らめく炎の中に浮かび上がったのは、子供かと見まがう華奢な姿だった。
 が、居並ぶ鎧の男達が差し向けた、槍穂のずらりを怯えることなく見渡しているようだった。
 真深く被ったフードから、明るい色の豊かな髪が溢れている。
 僅かに覗く小さな白い顔の上で、紅い唇がきりりと引き絞られた。
 「抵抗せず、大人しくついてくるなら痛い目に会わずに済む。」
 ぎらりと光るショートスピアーの穂先がさらに深く差し向けられる。
 その場から動けば、咽を突かれるのは必死だった。
 「…………ふうん。」
 それだけだった。
 フードの人物が漏らした最初の感想は。
 その声は高く、はっきりとわかる少女のもの。
 肩に背負っていた荷物から手を放すと、袋がどさりと地面に落ちた。
 「む。」
 小隊を率いる隊長が眉をひそめる。
 少女が両手を顔の位置まで上げた。

 彼は秘かに安堵した。
 武器も持たない、年端も行かない少女に槍を向けるに忍びなかったからだ。
 騎士らしい心をまだほんの少し持ち合わせている、今では数少ない人間の一人だった。
 彼が守る都市では、久しくこの方見なくなった物の一つだ。

 だが。彼は見誤っていただけだったのだ。目前の人物を、少女だと。
 「あたしをリナ=インバースと知って、こうするわけ。
 ‥‥‥‥‥甘いわよ。」
 上げた手のひらの片方で、少女は一本の穂先に触れた。
 はっとした持ち主が身を引く間も与えず、口の中で唱えていた呪文が解放される!
 

  『氷窟蔦(ヴァン・レイル)!』
 

 
 一瞬ののち、軍馬の列は凍りついていた。
 円陣を組んだそのままの陣形で。
 松明すら凍りついていた。
 辺りは再び闇に覆われる。
 
 少女はまた荷物を背負いなおすと、氷の蔦をひょいひょいと避けながら、苦もなく列から抜け出した。
 振り返り、片方の手を差し出して光を生み出した。
 揺らめかず黄色い光を投げかける魔法の明りに照らし出された、自分の作品を見回す。
 「悪くないわね。
 ちょっとばかしアレンジを加えてみたんだけど。
 これなら狭い場所じゃなくても使えるわ。」
 風が、はらりとフードを払う。
 現れたのは、濃赤に輝く宝石のような双眸。
 満足げにきらきらと追っ手に一瞥を送り、しばし考えると、彼女は空を仰いだ。
 「まだ寒いし、これならしばらく時間は稼げるでしょ。
 追っ手がかかってるってことは、人里をしばらく離れた方がいいわね………。」
 蒼い月はぽかりとそこに浮かび、何も答えはしなかった。
 

 その時、夜の静寂(しじま)を破って、林の奥から深く長い悲鳴があがった。
 いや、悲鳴ではない。
 彷徨う狼の遠ぼえだった。
 さながらそれは、咽を震わせて歌う哀歌のようだ。
 「…………狩りをしてるのね。
 ま、朝までに追いついてくれればいいわよ。」
 何故か少女は、その声に答えるように呟いた。

 この地上で、あの狼が。
 昼は人の姿に戻る一人の男なのだと。
 知っているのはほんの一握りの人間だけだった。
 少女と、男と。
 そして、昼と夜の呪いをかけた張本人である、鐘楼の街に巣食う怪物と。
 
 「……!」
 背後で、ぱきぱきと氷を踏むような音がした。
 ひゅっと空気がうなじをかすめ、リナは咄嗟に横に飛んで交わす。
 空になった場所に、槍が飛び込んできた。
 「ち、甘かったのはあたしの方か!」
 地面に手をつき、体勢を戻した少女が舌を打つ。
 軍馬が隙き間なく隊列を詰めているために、氷の蔦の魔法を使ったのだが。
 僅かにはずれた一人が残っていたようだ。
 「魔女めっ!」
 仲間の槍を氷の中から引き抜き、一人の騎士がまた投げようと構えていた。
 馬から降り、徒(かち)で走り込んでくる。
 「!」
 少女は荷物を落とし、両手をぱんっと合わせて魔法の明りを叩き潰した。
 月光のみの蒼い闇が降りる。
 目標を失った騎士は、槍を投げ掛けたがやめ、手に構えた。
 鎧を鳴らして走ることはせず、じりじりと近づいてくる気配。
 風を生んで、相手を吹き飛ばすか。
 目くらましの光を投げあげて、視力を奪われたところで逃げるか。リナは一瞬躊躇した。

 その一瞬で、先手を取られた!
 ぱあっ………!
 突然、辺りが真っ白に輝いた。
 真昼のような光に視力を奪われたのはリナの方だった。
 「なっ……!」
 「魔道をたしなむのがお前だけと思ったかっ!」
 槍を構えた騎士が、地を蹴った。痛む目を押さえ、リナは踵を返す。

 ひゅっ!

 風が鳴り、突然リナは地面に倒れこんだ。
 今度は避けきれなかった槍が、リナのマントを地面に縫い止めたのだ。
 「くっ!」
 だが、騎士は迂闊に近寄って来なかった。
 近づいてくれば気配でわかるものを、とリナは唇を噛む。

 「精霊の力を借りた氷の魔呪か。面白い。
 今度はお前に使ってやろう。
 そして大司教猊下の元へ連れていく。
 お前のような魔女は、火刑こそふさわしいだろうが。」
 この場から逃れる手は?
 必死に巡らせる頭と裏腹に、リナは言葉を紡いだ。
 「あたしが火刑にふさわしい?何の罪で?
 あんただって魔法は使うじゃないの。ビザンツカヤは魔法を禁止してるわけじゃないのよ。」
 「お前は魔法を操り、万人を惑わせ、都を混乱に陥れ、その権利を狙った。万死に値する。」
 「あのねっ!誰に聞いたか知らないけど、それはあたしじゃなくて……!」
 「大司教猊下おん自らが下された御命令なのだ。疑う余地はない。」
 「だから!!その司教がっ……!」
 「問答無用!次に目覚めた時は刑台の上と思え!」
 これ以上の時間稼ぎは無駄だと、騎士は術を解放しようとした。
 

 ガウッ!!

 
 「ぎゃあっ!」
 男は悲鳴をあげ、術を唱える前に後ろに引き倒された。
 羽根飾りのついた男のヘルムがゴリゴリと地面を掻き回している。
 「やめ、やめろぉっ!がぁっ!!」
 「…………!」
 リナは目をしばたき、薄れてきた光に目を向ける。
 漆黒の被毛に覆われた巨体が、男の喉元に食らいついていた。
 激しく揺さぶりをかけ、相手を仕留めようとしている。
 「ダメ、殺しちゃ!」
 リナは思わず駆け寄り、狼に抱きついた。冷たい夜の匂いがした。
 「ひい、ひいっ!」
 騎士が情けない悲鳴をあげる。狼の白い牙は揺るがない。
 「やめて!ガウリイ!!」
 相棒の名を呼び、リナは必死に引き剥がそうとする。
 かつての旅仲間は、背の高い、長い金色の髪を持った穏やかに笑う一人の青年だった。
 だが、リナと共に司教の呪いを受け、夜はこうして狼に姿を変える。
 
 狼はようやく顎を離し、今度はリナに牙を向けた。
 青い目が狩りの色を浮かべ、獲物を突き刺す。
 狼でいる時、彼は狼そのものだった。
 人でいる間の記憶もなく、夜に昂る野生の本能が彼を突き動かす。

 ………それなら何故、とリナは思う。
 何故、彼は。
 この狼は、まるであたしを助けるように現れたのだろう?と。
 突き倒され、地面に仰向けに打ちつけられ、振り仰いだ天に星が瞬く。
 どしりと腕に獣の体重がかかり。
 夜天より暗い黒狼の、蒼星より暗い双眸に、自分を見い出す。
 裂けていく口蓋に立ち並ぶ歯列から、渇望の涎液が滴り落ちる。

 
 …………このまま。食べられて。
 さすらう夜と昼の旅を終わらせるか?
 そんな思いがちらりと浮かぶ。
 だが、それはほんの短い間で。すぐに彼女はそんな弱気を打ち消す。
 そんなに簡単に。終わらせていいことではない。
 約束したのだから。再び元の姿に戻って。
 人間に戻った姿で、昼を夜を。共に歩こうと。
 「ここで諦めるわけには、行かないのよっ……!」

 リナが囁くように口にした途端、狼はびくりと体を震わせた。
 「?」
 どう、とその狼としては大きい体が倒れる。
 「ガウリイっ!?」
 ふさふさとした被毛に突き立てられていたのは、槍の柄だった。
 「狼は殺していいと言われている………。」
 裂かれた咽を押さえ、苦しげに呻く騎士が傍らに転がっていた。
 
 「………狼じゃないっ……!ガウリイよっ……!」
 それまで冷静だった少女が、理性をかなぐり捨てた悲鳴に近い声を叩きつけた。
 槍は深々と刺さっていて、抜けそうにない。
 しかも簡単に抜くわけには行かない。
 びくびく、と狼が震える。
 呼吸がハッハッとかなり荒い。
 「まずいわ………!これじゃ、治癒の魔法くらいじゃっ……!」
 とめどなく流れ出す血を押しとどめようとでもするように、当てた手のひらが真っ赤に染まっていく。
 「何故だ………狼だろう………ただの……害獣だろう………」
 騎士はごほごほとむせ、狼にすがる少女に目を向けていた。
 その姿は、彼の目にはひどく奇妙に映ったからだ。
 ……そういえば。
 まるで、この少女を守るかのように。狼は駆けつけてきたのだろうか?
 「違う……っ……!狼じゃ………狼じゃないっ………。
 彼はあたしの…………あたしの…………」
 切れ切れの言葉に、少女の隠せない気持ちが入り交じっているようだった。
 
 その時だった。
 静寂を破るもう一つの獣がいなないた。
 自ら月光を放っているかのような、白い軍馬が丘を下ってきて、この不思議な構図に加わった。
 倒れ、呻く騎士と。
 槍に貫かれ喘ぐ狼を、庇うように立ち上がった小柄な少女という。

 軍馬から降りたのは、リナよりも小柄な姿だった。
 馬と揃えたように白いマント、守りの水晶を縫いつけた白い服の、黒髪のこれまた少女だった。
 
 
 
 



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