『紅陽奇譚』

 
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 崩れかけた階段を、一人の僧侶が昇っていた。
 細く締まった体つきに、粗末な灰色の僧服をまとっている。
 きびきびとした動きから見ると、それほど年を取っているようには見えなかった。
 まるで青年の動きだ。
 彼は階段のなかほどで、何かを避けるかのようにひょいと右端に体を向けた。
 壁に沿うように三段ばかりあがると、今度は反対に左端に体を移す。
 階段には何の変化もないように見えたが。

 「…………………」
 手にした灯明に、鋼のような髪が写し出された。
 人間のものとも思えない。
 青い肌に、石のつぶてのような紋様が浮かぶ。
 紋様ではなく、それは本物の石のようだった。
 この姿ゆえに、彼は都を遠く離れ、一人、隠者の生活を送っていた。
 「何だ?」
 鐘楼に昇っていた彼は、ふと窓から下を眺めて軽い驚きに誘われた。
 一本の松明の明りが、こちらに向かって近づいて来るようだった。
 「こんな荒れ地に、客か。」
 かと言って、入れるつもりは彼にはなかった。
 どちらにせよ、この風貌を目にしただけで大抵の人間は逃げて行く。
 予想通り、門に下げた鐘が激しく鳴らされる音が聞こえてきた。
 何にせよ、突然の来訪者は危急に際しているようだった。
 「誰が困ろうと、俺の知ったことか。」
 だが、彼の足を止めたのは、一人の少女の切羽詰まった叫び声だった。

 「開けて!開けないと門を吹っ飛ばすわよ!」
 
 


 
 ゼルガディスは門を開け、その姿をわざと曝した。
 馬を降りた少女が掲げた松明の明りに、進み出る。
 ひっと息を飲む音と、悲鳴を彼は待った。
 だが、それは一向にあがらなかった。
 打ち捨てられた古い寺院を訪れたのは、二人の少女だった。
 馬の手綱を引いてきたのは白装束の少女。
 もう一人は手を真っ赤に血に染めた、いささか物騒そうな栗色の髪の少女だった。
 おそらく、先程の宣戦布告はこの娘だろうと当たりをつける。

 「訳ありで。泊めて欲しいの。お礼はするわ。」
 「迷惑だ。」
 きっぱりと撥ね除けながら、ゼルガディスは驚いていた。
 何故この二人は、俺の姿を見て腰を抜かさないのだろう?と。
 「迷惑は承知の上で頼んでるの。お願い。」
 少女は踵を返し、馬に歩み寄った。
 馬上の鞍には人ではなく、何か黒い塊が乗せられていた。
 「手を貸して。ひどい怪我をしてるのよ。」
 「………人に物を頼む態度か、それが…………
 って……こいつは………人間じゃじゃないじゃないか‥‥‥!」
 興味をそそられ、ゼルガディスは鞍に縛り付けられた巨体を眺めた。
 一体どうやって、このひ弱な少女二人が鞍に押し上げたのだ?
 大体、何故狼など連れて来るのだろう?
 純粋に興味だけが湧いた。
 「人間よ………!」
 歯を食いしばり、栗色の髪の少女はゼルガディスを睨みつけた。
 人を貫くようなその紅い瞳に、何か背筋の冷たくなる決意を感じて、彼は戸惑った。
 「人間、か………」

 人の姿をしていない人間。
 それは自分の現在と通じる物があった。
 「入れ。」
 それまで五年の間、誰一人招き入れなかった住処の扉を彼は開いたのだった。
 
 
 
 


 
 一人住いの僧房に、ゼルガディスは二人を案内した。
 リナと名乗った少女は精神を集中させ、浮遊する狼を導いている。
 「なるほど………。魔道士か………。
 訳は聞かせてもらえるんだろうな?」
 「彼の治療が終わったらね。」
 少女は真剣そのものだった。
 どこから見ても狼は狼にしか見えなかったが、少女はそれを人間だと言って譲らなかった。
 ゼルガディスの風貌にも疑問を抱いたはずだが、何も問いかけてはこなかった。
 ただ、狼の様子だけが心配なようだった。
 黙ってついてきたもう一人の少女は、扉を閉め、松明の火を燭台に移した。
 「聖水銀はありますか。聖水晶は。」
 「一応寺院だからな。あるにはあるが。」
 「それが要ります。取ってきて下さい。」
 「どうするつもりだ。」
 年下の少女に命じられて腹が立つより、ゼルガディスは興味が先に立った。
 黒髪の少女はマントを脱ぎ、ベッドに横たえられた狼の前に膝まづいた。
 その腰には武器らしい物は一つも帯びていない。
 が、胸に一つ、腰に一つ、腕に二つの星が蒼い光を放っていた。
 「神官、か……?」
 「今から蘇生法を行います。急いで。時間がありません。」
 あどけない顔をゼルガディスに向け、少女はまだ動かないのかとゼルガディスを不審そうに仰いだ。
 「わたしはアメリア=ウィル=テスラ=セイルーン。
 あなたも僧侶なら聞き覚えがあるでしょう。前司教の名、セイルーン家を。
 私はその孫娘です。
 今から白魔法の奥義を使います。この人を救うのです。」
 


 
 一時間に渡る詠唱儀式ののち、三人がかりで槍を狼の体から引き抜いた頃には、東の空が薄く輝き出していた。
 傷は塞がり、血は止まっていた。
 狼の呼吸が穏やかになり、一度は跳ね起きたがリナが眠りの呪文をかけた。
 休ませようと部屋を出た時には、ゼルガディスは部屋を見渡して危惧した。
 「目が覚めたら、暴れるんじゃないか。」
 「………目が覚める頃には、昼間になってるわ。だから、大丈夫。」
 「…………?」
 訳のわからない説明をするリナに、ゼルガディスは首を傾げた。

 やがて台所兼食堂の埃が積もってない隅のテーブルで、三人は腰を落ちつけた。
 「一体、どういう事なんだ。」
 「それは…………」
 リナは言葉を曇らせ、窓に視線を投げかけた。暁の星が、白んでいく空に消えかかる。
 「わたしが代わって説明します。リナさんは、外に出ていいですよ。」
 アメリアが静かに言った。リナは躊躇し、ドアを振り返る。
 「ガウリイさんの事はわたしと、このゼルガディスさんに任せて。
 行ってらっしゃい。そして、夜には戻って。」
 「…………頼んだわ。」
 仕方なく、しぶしぶと言った表情でリナは立ち上がり、外へと通じるドアに向かった。
 その後をゼルガディスが追おうとする。
 「おい、訳を話すんじゃなかったのか。」
 「行かせてあげて。見られたくないのよ。」アメリアが止めた。
 「見られたく、ない………?何を…………?」
 

 キュア………ッ……!

 
 リナの姿が消えたドアの向こうから、この日三度目の獣の声があがった。
 狼の遠ぼえ、軍馬のいななき。そして鷹の喧声だった。

 そしてアメリアは語り出した。今から一年前に起きたある小さな事件を。
 そこから全ては始まり、こうして司教の孫娘である彼女もまた追われる身になったことを。
 「旅の魔道士の力を借りて、都を手に入れようとしたのか。その大司教とやらが。」
 「リナ=インバース、さっきのあの人は、神に使えるわたし達神官の間でも有名な、力ある魔道士。
 わたしのお祖父様の地位を欲した男は、その力を利用しようとしたのよ。
 けれど、あの人はそれを断わり、口封じのために、男は彼女とその連れに呪いをかけた。
 彼は神官というより呪術士だったようね。」
 「それで、昼の間はあいつが鷹になり、夜の間は………」
 はっとしたゼルガディスは、僧房へ戻った。
 扉を開け、ベッドに目を移す。
 そしてようやく彼はその話を信じる気になった。

 苦しげに汗をかき、何事か呟いて眠るその姿は。
 狼などではなく。
 少女が言い募ったように、人間だった。
 黒い被毛ではなく、黄金色の長い前髪がその顔にかぶさっていた。
 「夜の間は、こっちが狼か……。
 こんな技は聞いたことがない……。」
 「ええ。誰も知らないわ。呪いを解く方法もね。
 だから、二人はその方法を探して旅をしていたのよ。
 二人が出ていって数カ月して、業を煮やした司教は、実行に踏み切ったわ。
 狂信的な信者を味方につけて、大司教を失脚させたのよ。
 ………結果、心臓が悪かったお祖父様は、名誉挽回の機会なくしてみまかられた。
 司教は自ら、後釜に収まったわ。
 父と私は、お祖父様の汚名を返上する機会を伺って、都を出てきたところだったの。」
 「ふん………」
 
 ゼルガディスはドアを閉め、廊下を戻り出した。
 「つまりはよくある権力争いか。下らん。」
 「下らん?」
 アメリアはぴたりと足を止め、灰色の僧服を睨みつけた。
 「下らん?あれが?あの二人の姿を見て、それでもまだ下らないと?」
 「ああ、下らんさ。
 その原因がたった一人の男の権力欲だとしたら、なおさらね。
 巻き込まれたやつらは気の毒だが、下らない事件であることは確かだ。」
 「………………」
 怒りに目を燃やしたアメリアは、窓の外を指さした。
 「彼らは、たまたまあの都を訪れたせいで。
 もう、人間の姿では言葉を交わすこともできないのよ。
 昼は鷹、夜は狼、人間同士として触れあうこともできない。
 それでも諦めずに、彼らは方法を探してる。
 もう一度、肩を並べて歩くためにね!
 あなたのその姿も、何かの呪いを受けてのことではなくて?
 あなただって、姿を元に戻すために研究を続けているんでしょう?」
 ゼルガディスが振り返った。
 僧房の壁という壁をびっしりと埋めた本棚に、アメリアは気がついていたのだ。
 「確かに、あの人たちをあんな目に合わせたのは、どうしようもない悪党だわ。
 あんなやつが今でも大聖堂をしずしずと歩いているかと思うと、この世に正義はないのかと哀しくなる。
 でも、下らないのはあいつであって、努力を惜しまない彼らを下らないとは、わたしは言えないわ!」

 鐘楼の上で、鷹が八の字を描いて飛翔していた。
 狩りに出かける様子もない。
 離れがたい思いがあるのか、そこを離れようとはしなかった。
 「それもこれも、あの尊大なレゾのせいで………」
 「!」
 ゼルガディスが突然、アメリアの腕をとった。
 痛いほど真剣に握られ、アメリアがいぶしかしげに彼を見返す。
 「レゾと言ったな。今。間違いないか。」
 「…………?ええ、赤法師、大賢者、癒しの手と謳われた、レゾ司教よ。
 ……知ってるの?」
 「司教………司教になっていたのか………。あいつが………!」
 びりびりと空気を震わせるようなオーラが、ゼルガディスを包んでいた。
 息を飲んだアメリアに、怒りと復讐に目を燃やしたゼルガディスがこう言い放った。
 「俺の体をこんな風にしたのも、あいつなんだ……」
 「……………!」
 「相手があいつなら、話は別だ………。
 呪いを解く方法も、俺は知っている。」

 
 その時、廊下にもう一人の気配がした。
 「何だって………」
 壁にようやく寄りかかるように、床を抜け出してきた青年が立ち尽していた。
 「方法を………知ってる………?」
 まだ回復しきれていない、眠りの呪文も完全に抜けてはいなかった。
 彼はずるりと床に滑り落ちる。
 アメリアが駆け寄り、ゼルガディスが手を貸して立たせる。
 「ああ。その呪いを解くには、たった一つしか方法がない。
 そしてそれは、俺の体を治すのも同じなんだ。」
 「教えてくれ………」
 苦しい息の中で、青年が囁くように言った。
 目線はゼルガディスを通り越し、鐘楼の上でぐるぐると飛び回る鷹へと向けられていた。
 「教えてくれ、頼む…………」
 「……………………」

 ゼルガディスはため息を吐き、首を振った。
 「必要な物がある。そしてそれは、どうやら一つの所にしかないらしい。
 そのある物を手に入れれば、呪いを解くことができることだけはわかったんだ。」
 「ある物………?それは………?」
 アメリアの問いに、ゼルガディスは暗い瞳を向けた。
 「異世界の魔王について語られた本がある。
 異界黙示録。
 魔王の力を借りて、この世の法とは異なる異種の魔法を行う力がある。その写本だ。
 写本を燃やせば、効力がなくなる。」
 「どこに、どこにあるんですか!」
 「聖王都ビザンツカヤ、今は大司教に収まってやがるあの男。
 レゾが、それを持っているんだ。」
 「……………!」
 
 青年はよろめきながら、部屋へ戻った。
 少女が抱えてきた荷物の中から鎧を出し、身につけようともがく。
 「何をする気なの。」
 止めようとするアメリアの前で、蒼白の顔が囁いた。
 「都に戻る。」
 「無理よ。その体じゃ。」
 「もう大丈夫だ。」
 「バカな事を言うな。お前一人で何ができる。」
 ドアに手をかけ、ゼルガディスが冷たく嘲った。
 大剣を取り出したガウリイは、びくりと動きを止める。
 「今やレゾは、あの都を占領しているも同然だ。当然、衛兵は彼に就く。
 追っ手がかかったんだろう?
 そんなところに一人乗り込んで、大聖堂にすら辿り着く前に処刑されるのがオチだぞ。」
 「………………」

 ガウリイは呻き、ため息を長く吐き出した。
 「だが………やっと方法が見つかったのに………。
 のうのうと寝てられん………。
 こうしてる間に、いつまた追っ手が来るかわからんし………。もし、リナが………」
 自分が狼でいる間に起こるかも知れない悲劇を、ガウリイは恐れていた。
 一人荒野を行く彼女を、誰よりも守らなければと思っているのに。
 夜の自分は狼で、一番守りたい者の顔すらわからない。
 昨晩のように、もし自分がリナを手にかけたら?
 そう思うと、夜の間は彼女から離れる習慣がついていたのだ。
 「………今はとにかく、体を休ませることが一番よ。
 ゼルガディスさん、でしたよね。
 しばらく、二人を休ませてもらえますか。」
 「ああ。俺の家で死なれても迷惑だからな。」
 わざと冷たく言い放つゼルガディスに、ガウリイは頭を下げ、大人しくベッドへと戻った。
 窓の外ではまだ、鷹が離れずに空を舞っていた。
 
 


 



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