『DAY PHANTOM』
 
「A phantom Sircuit」

 


 
 
 
ツピッ!

『ザザッ……こちら”野生馬”異常なし。
”鷹の目”を確認。現在、三階から四階へ移動中。
”狐の手袋”報告せよ。』
 
 
アメリカ連邦合衆国。
その経済の中心地であるニューヨークの夜を、夜の静寂(しじま)とは別の静けさが包んでいた。
一機のヘリが、横腹に書かれたNYPDの文字を見せつけるかのように旋回(バンク)し、細長いビルの周囲にサーチライトの光を当てる。
ヘリと同じロゴのパトカーが6台、サイレンも回転灯も消した状態で、一つしかないビルの正面を大きな盾のごとくに取り囲んでいた。
防弾チョッキを身につけた警官が、開いたドアの影から銃を片手に、強ばった顔で辺りを伺っている。
 
息を殺して獲物を待つ、縒り集められ、練り上げられた緊張。
そこから生まれる静けさだ。
 
それはひときわ階数の多い、ぽつんと一人で立っている感のあるガラス張りの建物だった。
最近建てられたばかりのインテリジェントビル。
情報中央集約型、雷対策から各階の湿度温度の調節、免震設備、人の出入りのチェックまで、徹底した差別化を図った高級オフィスビルを謳うだけの事はある。
入口に掲げられた金属プレートには、IT企業から保険会社まで、一般投資家からも支持されている注目株が軒を列ねていた。
昼間ともなれば、ブランドのスーツをそつなく着こなす若いビジネスマンが、IDタグ付きのネームプレートを首から下げ、忙しく往来していただろう吹き抜けのロビー。
 
今やそこは、即席の作戦指揮所と姿を変えている。
 
液晶モニタがずらりと並べられた細長いデスクに、数人の人影が張り付いていた。
椅子に押し込めるには窮屈そうな巨体が、ビルの見取り図に目を凝らしている。
目まぐるしい周波数変換機能を持つトランシーバーからは、定期的に各ポイントから報告が入る。

内部に警官の姿は少なく、デスクの周りにいる数人は警官の制服すら着ていなかった。
スーツにIDタグつきのネームプレートは同じだが、ビジネスマンではない。
スーツの上から羽織っているウィンドブレーカーが、それを声高に表していた。
黄色い書体の目立つ三つのアルファベット。
FBI。
Federal Bureau of Investigation。
アメリカ連邦捜査局の略号である。
 



 
ピッ!ザザザッ!
『”狐の手袋”応答せよ。』

ぎりぎりまでボリュームを絞ったイヤホンマイクから、電子音と雑音が同時に飛び込んできた。
ビルの最下層、地下7階にいた小柄な人物が、耳を押さえて顔を顰める。

「悪いけど、こっちは忙し〜のよっっ!
いちいち定時報告なんかやってられますかっての!」

子供のように小さな手が二本、目まぐるしく動いていた。
言葉尻に合わせ、タンっとリターンキーを叩く。
『何だその言い草は!
ヤツを取り逃がしたのはお前だぞ!』

冷たい床にそっちのけで置かれたレシーバーが、虚しくがなり声をたてる。
液晶のバックライトに浮かびあがった顔が、ふんと鼻を鳴らした。
「あたしの提案を信じないで、応援を回してくれなかったのは誰よ?
確かに前回逃がしたけど、最後まで追い詰めたのはあたしじゃない?」

上の階にいる捜査官と同じ、ロゴの入ったウィンドブレーカーに栗色の髪がはらりと落ちる。
挑戦的な言葉を口にしたのは、FBI始まって以来の最年少捜査官にして、天才の呼び名も高い、いや、実を言えばもっと悪名で名高い一人の女性。
リナ=インバース特別捜査官(スペシャルエージェント)。
「つーことで報告終りっ!オーバー!」
『っっかぁあああっ!この暴走機関車がっ!好きにしろ、オーバー!』
「好きにするわよ、オーバー!」

レシーバーを転がしかねない勢いで、交信が途切れた。
どこからともなく長い腕が伸びてきて、スイッチのつまみをひねる。
「………ったく、まるで子供の喧嘩だな。」
レシーバーの電源を切ったのは、地べたに座り込んでいるリナからすると、雲をつくような大男に見えた。
リナの身長が10才の子供より低いのに対して、その捜査官は6フィートを軽く越す長身だ。
同じパーカーを着ているところからして、リナの同僚には違いない。
ガウリイ=ガブリエフ特別捜査官。
リナとコンビを組んで一年になる相棒だった。

だが、その組み合わせにはとことん違和感がつきまとう。
チビでも言葉は辛辣で頭の回転が早い、落ち着きのない小動物を思わせるリナと。
アスリートのように均整の取れた体で、いかにも身体的能力は高そうなのに、いつでもうすぼんやりした印象を与える温厚な性格の持ち主。
交信相手がなじったように、暴走機関車の悪名の方が高いリナの傍らにあって、頼り無いが唯一のブレーキとされているのが彼だった。
「ほっといて。あっちから仕掛けてきたのよ。
大体、この計画は穴がありすぎだわ。
相手はあのファントムなのよ。」
リナの大きな茶の瞳が、きらりと光を放つ。
 
国際警察刑事機構にも手配が回る、連続窃盗犯。
主にEUとアメリカに出没し、鮮やかに狙いの品々を奪い、煙のように消えてしまう。
正体不明、年令不明、国籍不明、人数不明。
その犯人にFBIがつけた名が、ファントム(おばけ)
ファントムシーフ(怪盗)をもじったものらしい。

「しかし、静かだな。この階にはオレ達しかいないんだっけ?」
「そーよ。」
リナの前にはケーブルに繋がれた、トランスルーセントのノートパソコンが一台あるきりだった。
背面にはリンゴの形の白いマークが点灯している。
「余分な人数は、ファントムに変装の機会を多く与えるだけ。
今回あいつが狙ってきた宝石はこの階じゃなくて、最上階にあるんだから。」
遠くの物音に耳を澄ませるように首を傾けていたガウリイは、意外そうにつけ加えた。
「もしかして、マスコミのヘリも来てないのか?」
「そのようね。事前の根回しが効いたか、まだ情報が広範囲に漏れてないかも。」

合衆国で事件を数回起こしているファントムは、すでにマスコミの格好の餌となっていた。
何故なら。
ファントムには、メディアが喜びそうな劇場型の傾向がふんだんに見られたからだ。
「まあ何といっても。
予告状があたし宛だったってこともあるしね?」
また一つリターンキーを叩き、画面を確認したリナ。
懐からビニールのシールパック出して、軽く振ってみせる。
日本では馴染みの薄いレターサイズの便箋に、骨董品もののアンダーウッド社製の手動タイプライタで打たれた、ダブルスペースの文章。
紙は灯に透かすと、老舗であるサウスワース社の透かし(ウォーターマーク)が見て取れる。
一世紀ほど昔に遡った錯覚を覚えさせるところからしても、やはりあの時代錯誤の怪盗の手によるものらしい。

まるで一昔前の冒険小説のように。
地元警察に予告状を送りつける、燕尾服の怪盗。
世間がもてはやすのも道理だった。
 
しかし今回は、FBI、それも特別捜査官のリナの元に届けられたのが、いつもと違っていた。
「いい度胸じゃない、ファントム。
もう少しであたしに捕まるところだったってのに。」
予告状を大事そうにしまい、腕組みをするリナ。
その目は縦にスクロールされていく変数に焦点を合わせていたが、生き生きとして、意欲と自信に満ちあふれていた。
「明らかに、あたしに対する挑戦よ。
今回も逃げきってみせるとでも、言うつもりかしら。」
組んだ腕から片手がぴっとあがって、映像ではお見せできない格好に指がおったてられる。
「ふっ!そうは問屋が下ろし大根!!」
「こらこらこらっ。」
衆目の中で恥ずかしい素振りをする子供をたしなめるように、ガウリイがぱたぱたと手を振った。
「お前なあ、一応年頃の女の子なんだから、そーゆー下品な手つきはやめた方がいいぞ。
……それに下ろし大根って………。」
「………あれ。」
 
素直に指を下げたあと、リナが驚いた顔でガウリイを見上げた。
「そんな、まさか。」
「どうした?」
まじまじと見つめられ、戸惑うガウリイに、リナはさも心外だという風に目をぱちぱちさせた。
「ガウリイ………あんた………下ろし大根て知ってるの?」
「へ?」
「今の、何でおかしいってわかったの?
もしかして『そうは問屋が卸さない(Things hardly ever work out that well)』って慣用句、知ってた??」
「…………………。」

ガウリイはがっくりと肩を落とす。
「あのな………。何でそんなに驚くんだよ、そんなことで……。
お前………オレをただの物知らずだと思ってないか……?」
「思ってない思ってない。ただの物知らずだなんて。」
にこにこと笑うリナ。
そんなところはまだあどけない10代の少女のようで、とてもドアの鍵を銃で吹き飛ばせなどという暴走機関車捜査官には見えない。
「ただどころじゃなくって、ものすご〜〜く珍しい物知らずだと思ってる。」
「………………………。」
黙って額をこりこりとかくガウリイ。

長く伸ばした金髪に青い目、均整の取れた体に素早い身のこなし。
ある事件の捜査中に、ハリウッドのプロデューサーからスカウトまで受けたというハンサムぶりだった。
が、おそらく覚えたセリフを片端から忘れてしまうのがいいところだと、リナが脇から断ったこともすでにFBIでは語り草だ。
確かに頼りないブレーキではある。
 
「忘れてるかも知れないから言っておきますけど?
前回は、あんたのお陰でやつを取り逃がしたんですからね。
今回はきっちり働いてもらうわよっ!」
今度は人さし指をぴっと立て、ガウリイに向かって振る。
リナにとっての初舞台、捜査の指揮を一部任せてもらった事件では、怪盗の喉元まで迫ることができた。
しかし、応援に駆けつけるはずのガウリイが、ドアに鍵がかかっていたために遅れてしまい、結果として怪盗を目の前で逃がしてしまうこととなったのだ。
「はいはい。」
責任を感じているのかいないのか、軽く受け流す相棒。
リナは深いため息をつく。
元はSEAL出身だか何だか知らないが、身体能力だけはあてにしてるんだからね、と釘を差す。
 
「で、お前さんはさっきから、一人で何をやってるんだ?」
リナの脇にしゃがみこみ、ガウリイは画面を覗いた。
14インチの液晶画面に、ウィンドウが数枚開いている。
彼にとっては全く意味不明の数字の羅列があるかと思えば、十六分割されたライブカメラの映像があり、一番表にあってアクティブになっているのは、線がごちゃごちゃと入り乱れた地図のような代物だった。
「まあ、ね。」
リナがにやりと笑う。
両膝を立て、お尻を落として座る姿はまさしくティーンエイジャーだった。
ウィンドブレーカーの下はスーツではなく、チェックのコットンシャツに短すぎる気もするショートパンツ、レッグウォーマーにマウンテンブーツという出で立ちだ。
「細工は隆々、仕上げをアルマジロってね。」
「………アルマジ………………。
なあ、もしかして、オレをからかうのが面白いとか?」
「めたくそ面白い。」
「………………」

まじめな顔をしてふざけるリナに、ため息をつくガウリイ。
よくある光景だった。
 
 





 
 
同時刻。ビルの最上階。
全方位をガラスではり巡らされた、円形の展望室。
それもただのガラスではない。
中間膜をはさんだ強靱なガラスを、さらに復層にして取り付けられており、紫外線をカットし、熱を遮蔽するのはもちろんのこと、防犯上でも高い効果を持つ。
普段はビジネスマン達の憩いの場として、絵画のギャラリーやミニコンサートの会場に使われていた。
そして今週に限り、ビル内に入っている宝石販売会社の展示会が行われていたのだ。
 
怪盗からの予告状にはこうあった。
『展示されている”カオティックブルー”を午前3時に貰い受ける』

”カオティックブルー”。
宝石の中には、種類ではなく、単体の名前がつけられるものがある。
渾沌の青を意味するその名前は、一顆のサファイアにつけられていた。
現在ではほとんど採掘されない、希少なカシミール産のブルーサファイアとされ、深い青色を際立たせるために、ペアーシェイプ(洋梨形)ブリリアントにカットされている。
確かに壮観であり、一介のビジネスマンには手の届かない値段である。
しかし展示室には、さらに希少なアレキサンドライトの首飾りも出品されており、それにはさらに高額の値札がつけられていた。
怪盗が何故、カオティックブルーを狙うのか。
それはまだ、誰も知らない。
 
リナが見ていたのと同じ、十六分割のライブカメラ映像を見ていた一階のロビーでは、固唾を飲んで時計の短針が3を差すのを待ち焦がれていた。
展示室に取りつけられた可動式カメラは六台、中央にあるエレベーターシャフトの周囲360度全てをカバーできるように設置されている。
サファイアの展示台は、入口正面に作られていた。
古代ギリシャ神殿の柱を模した、高さ4フィート(約1.2m)の支柱。
その上に、グラスファイバー製のドーム型ケースが置かれ、中は黒いビロードが敷かれている。
その上に、カオティックブルーは立っていた。
ひっそりと。
 
辺りには、警官も警備員も、捜査官も一人もいない。
動くものは六台のカメラだけだ。
黄金の羊を見張る眠らないドラゴンのように、まばたきもせず目を光らせている。
「来い、ファントム。」
腕組みをした捜査官の一人が映像を睨みつける。
 

時計の秒針が滑るように動き、頂点を目指す。
ピッ!
短針がかっきり3時を示した時、映像に異変が起きた。

『ゴトッ!』

スピーカーからただならぬ音声が伝わる。
「あれは!?」
並みいる捜査官が色めき立つ。
見ると映像の中で、展示室の天井の一部がごっそりと抜け落ちていた。
薄い天板のその上に、何やら白い塊までが見える。
カメラが連動して首を回し、半数に当たる三台が三方向から同時に捉える。
わずかに立つ塵と埃。
その中からすっくと立ち上がったのは、明らかに人間だった。
「ヤツだ!」

かつて映像にはほんの短時間しか捉えられなかった、怪盗の姿がそこにあった。 
長身を包む、グレートトラベリングコート。
その色は白。
下に纏うは夜会服の最上と言われるテイルコート(燕尾服)。
三釘のベスト、シルクのトップハット、そしてタイに靴。
すべて白色。
ただシャツだけが青い。
立ち上がると同時に体の向きをふいと変え、最初の一歩を踏み出す。
その身のこなしはしなやかで、人というよりはどこか獣じみて感じられた。
白い印象だけを残していく、ホッキョクオオカミのように。
 
正体不明、年令不明、国籍不明。
怪盗31号。
ファントム。
今こうしていても、顔はトップハットのつばに隠れてほとんど見えず、さらに長くて黒い前髪に遮られ、もう半分では片眼鏡がきらりと光っている。
白ずくめの服装はすでにFBIのファイルにある事実。
ファントムの顔を間近で見たことがあるのは、ただ一人だけだ。
 
 
 
「出たぞ!」
にわかに泡立つ現場で、ノートPCに立ち向かっていた捜査官が点滅する画面をクリックする。
怪盗が周囲を見回し、展示台に手を伸ばす。
と、カメラの画像が一瞬ブレた。
地震でもあったかのように短くグラつく。
怪盗がはっと顔を上げる。
ぶわぁああああっ………!
展示室中に白い霧が充満してきた。
カメラの下に取り付けられていた高圧噴霧器から、ガスが発射されている。
暴動鎮圧に実際に使用されているOC-10、13フィートまで届くという代物だ。
『!』
白い霧の中で、グレートコートの裾が閃く。
咄嗟に顔を覆う怪盗。
 

「今だ!」
指揮所から指令が飛ぶ。
最上階で止めてあったエレベーターのドアが開き、中からガスマスクをつけた一団が現れた。
銃を構えて、床上に転がる怪盗に近づく。
カメラの映像は白く濁るばかりで、影が動いているようにしか見えない。
やがてガスの煙は落ち着き、白い布の塊をぐるりと取り囲んでいる突入斑の光景が見えてきた。

「やったぞ!」
指揮所からは早くも拍手喝采が上がり、口笛が盛んに吹き鳴らされた。
三年も逃してきた仇敵をようやく手中にしたのだ。
「とっとと捕まえて、降りてこい!」

結果をこの目にしようと、全員がエレベーターの前に駆けつける。
順繰りに点滅する階数の表示が待ち遠しかった。
今夜は気持ちのいい祝杯を挙げられる。
その場にいる誰もがそう思った。
 

ポロロン……
到着を知らせる軽やかなメロディに続き、ドアが開いた。
ガアアアッ!

「!!?」
笑顔で出迎えた一団が、凍りつく。
三時間も狭いエレベーター内で息を殺し、その瞬間を待ち続けた上の快挙に、当然ねぎらいの言葉をかけて貰っても不思議ではないガスマスクの六人は。
バスケットから忽然と消えていた。
激しくムセこんで目を真っ赤にし、ぼろぼろと涙を流して醜態を晒しているはずの犯人も。
得意気にその犯人を取り押さえているはずの特別班も。誰も。
もぬけのからだ。
「どっ………どういうことだっ!?」
 
ツピッ!
『こちら”骸骨頭”!指示通り展示室に散開しましたが、誰もいません!
次の指示を早く下さい!』

背後のデスクから、慌てたような無線が入る。
「なっ……!?」
エレベーターの前で呆然と立っていた全員が振り返る。
 
誰もいないエレベーター。
不可解な無線の内容。
 
どちらに駆けつければいいのか、一瞬迷ったその隙に、エレベーターのドアが閉まり始めた。
「ちょ………待てっ!」
気づいた一人が上階行きのボタンを叩いたが、効果はなかった。
ドアは閉まり、エレベーターは動き出す。
下階へと向かって。

『”野生馬”!聞いてるんですか!?本部!?
ファントムはどこです!』
「…………これは………」
液晶モニタの前に転がるように走って行った捜査官は、唖然とした。

ライブカメラの映像には、展示室が映っていたが。
そこには崩れた天井も白い服の怪盗の姿も何もなく。

ただ、ガスマスクを外した男達が六人、銃を構えて右往左往しているシーンが映っているだけだった。
 




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