『最後に君は微笑んで。』


    4。
 
 
 額の上に暖かい感触を覚えて、リナはぽかりと目を開けた。
 「気がついたか。」
 ほっとした顔のガウリイがそこにいた。
 その後ろに、見覚えのある天井。
 また発作を起こして倒れ、ベッドに逆戻りしたのだとリナは悟った。
 「どこか、痛くないか?」
 額から手をどけて、ガウリイがのぞきこんできた。
 怒った様子はなく、ただ身を案じているようだった。
 まるで何も起きなかったように。
 「大丈夫よ……。」
 リナの口からは、小さく呟くような声しか出なかった。
 
 「聞きましたよ、リナさん。何であんな……」
 アメリアの声がどこかから聞こえてきたが、言葉は何故か途中で途切れた。
 他にも数人の人間がこの部屋にいるらしい。
 リナが視線を動かす前に、ゼルガディスが囁くのが聞こえた。
 「よせ。ガウリイに任せた方がいい。」
 「でも‥‥」
 「二人きりにしてやろう。」

 囁き声が消え、いくつかの靴音が去り、扉が開いてぱたんと閉じる音がした。
 それきり部屋の中は静かになる。
 ガウリイだけは、ベッドに腰をかけたままだった。
 



 「ふ…………」
 ため息を吐き、リナは手の付け根を自分の額に押し当てた。
 元の木阿弥だった。
 突然罹った病より、その痛みを伴う発作より、さらにつらいことは。
 ……もう一度、告げなければならないことだった。
 ガウリイに、さよならを。

 「や〜〜参ったわね。
 これじゃまるで、悲劇の主人公みたいじゃない?
 こ〜ゆ〜の、あたしの趣味じゃないんだけどね。」
 肩をすくめ、冗談めかして笑ってみせるリナ。
 だが、ガウリイの笑いを誘い出すことはできなかった。
 「気を失ってばったり倒れちゃうなんて、さ。
 こ〜なったら床に倒れ臥して、世界の終わりが来たみたいに嘆きつつ。
 よよよと泣かなくちゃダメかしら……。
 こう、裾とかそで口にレースが一杯ついたドレス着てさ?」
 ちらりと見上げると、ようやくガウリイがふっと笑ったのが見えた。
 「……確かに、そういうのはお前さんには似合わないな。」
 その柔らかな声に、リナは少し安堵した。
 同時に、微かな不安を覚える。
 「ドレスが、じゃなく。
 世界の終わりだ、なんて嘆くところがさ。」
 「………………。」
 「今までだって、世界が終わっちまうかも知れないことがあっただろ。
 ……でも、お前さんは諦めなかった。」
 「………………。」

 頭の上に圧力を感じて、リナはびくりと震えた。
 前髪が目の前に降りてきて、ふかふかと動いている。
 いつかそうしたように、ガウリイの手がわしわしとリナの頭を撫でていた。 
 いつもならそれで、妙に安心した。
 心地よかった。
 だが今は、その手が怖かった。
 
 「……………疲れたから、ちょっと眠るわ。
 一人にしてくれる?」
 そう言ってリナは軽く目を閉じた。
 そのまま、息を飲んで待つ。
 ガウリイが立ち上がり、ドアが閉まったら。
 足音が遠ざかったら。
 窓を開けて、飛び立つつもりだった。
 だが、いつまで待っても何も聞こえてこなかった。
 
 「……………?」

 うっすらと開けた瞳に、何かが飛び込んできた。
 黄色い塊が。
 続いてきしりとベッドが軋んで、頭の両脇に手が置かれた。
 枕が少し沈む。

 長い前髪がぱさりと垂れ、普段は隠れている片方の青い瞳までが見えた。
 鼻先が触れるくらい近くのぞきこんで、ガウリイが口を開いた。
 「……あのな。リナ。
 オレの前で強がったって無駄なんだぞ。
 一番つらい時に、一番平気そうな顔をするってことくらい…… 
 気づいてないとでも思ってたのか?」
 リナは大きく目を開いた。
 「………オレが出て行ったら、窓から逃げるつもりだったんだろ。」
 「!」
 「いきなりあんな事を言い出すから……。
 少し落ち着いてから、ちゃんと話を聞こうと思ったのに。
 さよならなんて言いやがって‥‥。
 怒ってるんだぜ、オレは。」
 「………………。」

 押さえつけられているわけでもないのに、身動きもできなかった。
 見下ろす青い目に、縫い止められてしまったように感じながら。
 長い髪が、まるでカーテンのように二人の周りに降りている。
 「…………どいてくれる。」
 深呼吸して、リナは低い声でガウリイに言った。 
 「イヤだ。」
 思いがけず強引な答えだった。
 リナは暴れ出す。
 「どいてってば!」
 枕に置かれた手をつかみ、引き剥がそうとする。
 ぴくりとも動かない。
 「ちょっと!横暴よ、ガウリイ!」
 「何とでも言え。」
 「人を呼ぶわよっ!」
 「呼べよ。」
 「本気で痛い目に会いたいわけ!?」
 爪の先がガウリイの頬を擦る。
 赤い傷ができたが、彼は構わなかった。
 「ダメだ。」
 「…………!
 あたしが手加減すると思ったら大間違いよ、ガウリイ!」
 「お前さんこそ大間違いだ。」
 引っ掻き傷のできた頬の上で、ガウリイが眉を寄せていた。
 「………オレの気持ちは考えたか?リナ。」
 「…………!」

 その言葉は、文字どおりリナを愕然とさせた。
 ぴたりと動きの止まった彼女に、ガウリイがさらに畳みかける。
 「お前さんは一人で勝手に決めて、オレにさよならを言ったんだぞ。
 オレに何の相談もなしで。
 そんなにオレは頼りないか?
 そんなにオレが信じられないか? 
 ………どうしてオレと、別れようなんて思ったんだ。
 それが聞けないうちは、どこにも行かせない。」
 「………………………」
 リナは眉を寄せ、一瞬泣きそうな顔をして唇を噛んだ。
 
 

 
 陽が傾き始めていた。
 部屋の周囲では、人払いがされているのか、何も物音がしなかった。
 どこか遠くの方で微かに低い鐘の音が響いているだけだ。
 


 「…………嫌だったのよ……」
 誰もいない部屋の向こうはしをにらんで、リナが呟いた。
 「嫌………?」
 暴れていた細い腕が、ぱたりと毛布の上に落ちる。
 「そうよ……。
 いつか、もしかしたら明日、あたしは死ぬかも知れない。
 今までだってそういう状況もあったけど。
 こんなにはっきり、自分の死を宣言されたわけじゃなかった。
 自分の力ではどうにもならない理由で、近い将来死ぬと聞かされて。
 そんなのに、あんたをつきあわせたくなかったのよ。」
 「…………………」
 「もしそこであたしがそんなことになったら、あんたは………。
 あんたって人は、自分のせいだと思っちゃうでしょ?
 何もできなかったって。自分を責めるでしょ。
 あんたには何の責任もないのに。
 ……そんな重荷を背負わせたくなかった。
 だから‥‥。その前に、明るく別れたかったの。」
 「…………………」
 そっと目を上げると、ガウリイの眉が引き絞られているのが見えた。
 「それに………」

 リナは少し言葉を濁す。
 「一緒にいたら、伝染するかも知れないでしょ。
 この病気が。」
 「……!」
 ガウリイの瞳が驚きで揺らいだ。
 彼はそこまで考えていなかったに違いない。
 「まだ何もわかってない病だもの。
 全く可能性がないわけじゃないわ。
 もしこの病気に伝染性があるなら、あたしに一番近い人間から移るでしょ。
 つまり、あんたよ。
 ……………そうなったら、今度はあたしが。
 自分を許せなくなる。」
 「…………リナ……!」 
 「今までの旅が、無駄だと思いたくない。
 あたしと出会ったこと、後悔して欲しくないのよ。
 大丈夫、そう簡単に死なないわ。
 どっかで元気にしてるって思って。
 あんたは、あんたの旅を続けて。」
 「……………………。」
 ガウリイの沈黙を受けて、リナはなんとかにこりと笑うことができた。
 

 ………早く済ませたかった。
 時間がかかればかかるほど、決心が鈍くなる。
 自分で決めた事に感情が追いつく前に、この場を立ち去らないと。
 ガウリイに見えないところで、リナはいつのまにか拳をぎゅっと握りしめていた。

 「そういうこと。
 ちゃんと話したんだから……行かせてくれるよね。」
 「……………………。」
 ガウリイの手が、枕から離れた。
 彼は体を起こし、ベッドの端に座り直した。
 溜めていた息を長々と吐き出す。

 と、呟いた。
 「お前さんは、オレより頭がいいと思ってたんだが。
 ……………意外とバカだったんだな、リナ。」
 「は………ええ!?な……なにそれっ!?」
 思わずがばりと跳ね起きるリナ。
 その頬に、ガウリイが伸ばしてきた指の背が触れた。
 そこで初めて、リナは自分がひどく冷えていたことに気がついた。
 「………な……」

  どきんっ……… 
  
 胸が一つ騒ぐ。
 別れなければならない相手だった。
 説得しなければならない相手だった。
 そんな事情など知らない心臓が、リナを裏切る。
 「…………………」
 ガウリイの言う通りだった。
 彼の気持ちは考えなかった。
 考えたくなかったのだ。
 自分の気持ちはとっくに気がついていたから。
 それを言葉にするのをためらっていただけだったから。
 こうなってしまっては口にはするまいと。
 胸の奥に封じ込めようと決めたはずだったから。

 「………確かにオレは、お前に何かあったらなんて考えたくもないさ。」
 部屋の静寂を、ガウリイの声が深く穿ち始めた。
 微かに囁くような声なのに、聞き逃すことができない声が。
 「お前さんと出会ってから、そりゃいろんなことがあったけど。
 出会ったことを、後悔したことなんかない。
 どっちかが倒れても、おかしくなかった旅だが。
 お前より後に死ぬつもりなんか、これっぽっちもなかったぜ?」
 さらりと言うガウリイに、リナはまた驚かされた。
 彼は険しい顔を崩し、ふわりと微笑む。
 「自分でもおかしいと思うけどな………オレは………。
 オレ達は……何があっても、ずっと。
 何とかして生きて、生き延びて。
 笑って空を見上げられない日があっても、次の日には少しだけ頭を上げて。
 そうやって、ずっと旅を続けて行くんだと思ってた。」
 「………………………」
 ガウリイの笑みが深くなり、彼は照れたように笑顔を全開にした。
 「そうだな、お前さんの言う通りだ。
 お前が先にいなくなったりしたら、その先自分がどうなるか………。
 想像がつかん。」
 「………………!」

 
 笑うガウリイの背後に、一条の光が差し込んだ。
 カーテンの隙間から、沈みゆく太陽が最後の一撃を放つ。
 部屋の何もかもをオレンジ色に染め。
 目を逸らせずにいる顔が、次第に逆光を受けて見えなくなってくる。
 
 「自分が死ぬことなんか、どうだってよくなることってあるもんだな。」
 いつものように穏やかな声が、影になった顔から降ってくる。
 「隣にお前さんがいなくなったら………。
 自分を責めて、何もかもがどうだってよくなっちまうかも知れない。
 ………だが、それがどうした?
 そうなったって、いいじゃないか。」
 「………………!」
 顔を縁取るように、黄金色の髪だけが輝きを放っていた。
 「そうなるだけの存在だった、ってことだろ。
 オレにとって、お前さんが。」
 「………………」
 「お前さんにとっては………そうじゃないのか?」
 「……………っ……」
 
 頬に触れていた指が離れ、リナの後ろ頭を手のひらが抱いた。
 夕暮れの頼り無い光の中でも、お互いの顔が見えるように。
 近く。
 リナの耳に前髪が触れるほどに、近く引き寄せる。
 「まったく。お前さんときたらなあ。
 他のヤツが困ってるのを見すごせないくせして。
 自分に同情されるのを嫌うだろ。
 ………けどなあ。オレは………。
 お前さんの保護者だからな。
 自分よりお前を心配するのは、同情なんかじゃないぞ。」
 「……………………」
 
 間近で聞く声は、耳からだけではなく。
 音が触れた場所から、浸透してくるようだった。
 体中が何かに満たされていく感覚に、リナはとまどった。
 さっきまで、自分で自分を空っぽにしていたことに気づかなかった。
 その隙間を、ガウリイの声が言葉が埋めていく。

 「何もできないかも知れない。
 そんな自分を呪う日が来るかも知れない。
 それでもオレは、お前を一人にしたくない。
 お前はそんなことに意味はないと言うかも知れないが。
 お前が苦しい時には傍にいる。
 お前が笑う時には、傍で笑いたいんだ。オレは。」
 「……………っ………」

 何も言えず歪むリナの瞳を覗き込むと、ガウリイは囁くのをやめ。
 空いた片方の手で、その頬をつまんだ。
 
 むにっ!
 
 「ひたっ………!ら、らにすんのよっ?
 いきなりほっぺたを引っ張られ、リナが面喰らう。
 
 むにむにっ。
 
 「ほら、笑え。リナ。」
 「らっ………!?らに言ってんのよ、あんた頭おかしーんじゃらいっ!?」
 
 むにむにむにっ。
 
 「お前さんのほっぺって結構柔らかいのな。
 お〜〜伸びる伸びる〜〜〜」
 「ば………ばかっ!!いらいってば!!
 いらくって………
 もぉっ………いらくて、なみられてきたれしょぉっ!?」
 「ははははっ。痛くて悔し涙か、リナ。」
 「そ………そぉよっ!悔し涙よ、これはっ!!
 あんたがアホなことばっかやってるからっ………!」
 「そうか?」
 「あ………アホなことばっかするやつでっ………
 勝手にあたしの保護者を自称したりしてっ……… 
 か………勝手に、だからっ……………」
 「…………………」

 
   ぽすんっ。
 
 声を擦らせたリナを、ガウリイは自分の胸に押しつけた。
 「なっ……」
 もがく頭をしっかりと押さえて、彼はからかうようにつけ加えた。
 「ハンカチないから、そこで拭いていいぞ。 
 ……鼻水はダメだけど。」
 「………ぷっ…………」
 ようやくリナが吹き出したのを聞いて、ガウリイは静かに微笑んだ。
 両腕を回し、小さな背中をそっと抱き寄せる。
 「お前は簡単に泣くヤツじゃないけど………」
 腕の中でぴくりと震えた頭が、真実を物語っていた。
 「泣く場所くらい、オレが守ってもいいだろ……?」
 「…………………………」
 「笑う場所くらい、オレが作ってもいいだろ……。」
 「…………………………っ……!」

 背中が小刻みに震えているのは、泣いているのでもなく。
 笑っているのでもなく。
 何かをふるい落そうとしているのだと、ガウリイは思いたかった。 
 「本当は頭のいいお前さんのことだ。
 きっと何か方法を見つけられると思ってる。
 ………だからオレは、他のことに専念するんだ。
 ずっとこの旅が続くように。
 オレ達が、笑って歩いていける道を探しながらな。」
 ぽんぽんと背中を叩くと、リナはくすりと笑った。
 「…………そんな道………あるかな………」
 「あるさ。なかったら、オレが作ってやる。」
 「…………ぷ…………。道路工事でもすんの、ガウリイ………。」
 「ああ。ヘルメットかぶって、ツルハシ持って。
 お前の前に、でっかい道をできるだけ長く作ってやる。」
 「…………………うん………」

 リナはようやく肩の力を抜き、ガウリイの胸に頬を預けた。
 「わかった………。」
 「………そうか。」
 二人はそれぞれの場所で微笑み、互いに目を閉じた。




 
 体が小さくても。大きくても。
 年をとっていても。いなくても。
 男でも、女でも。
 強くても、弱くても。
 降りかかるものは、相手を選ばない。
 それで押しつぶされようが気にしない。
 
 ならば。
 担いで笑うのが、いけないはずがない。


 「信じてないわけでも………頼ってないわけでも………ないからね。」
 リナが呟くと、ガウリイは黙って髪を撫でた。
 「ああ。わかってる。」
 「………あんたには、かなわないな、あたし。」
 「………何か言ったか?」
 「ん〜ん。何でも。」



 
 夕暮れの名残りの光が部屋を辞し。
 カーテンの影も、格子の影も。
 一つに重なる二つの影も。
 優しく闇が包みこんでいった。
 
 










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