「猫は見ていた」

みゃおう。

猫が啼いた。


窓辺に座ってぼんやりと外を見ていたガウリイは、扉が開いてそっと猫が入って来たのに気がついた。
銀色の毛。
濃い灰色の縞がある。
物問いたげな視線でこちらを見たまま、それ以上部屋に入って来ようとはしない。
目が合ったガウリイは、苦笑して手招きした。
「入って来いよ。何もしないから。その代わり、やるもんもないぞ。」
みゃおう。
まるで答えるように猫は一声啼き、優雅に一歩を踏み出した。
毛皮の下で動くしなやかな筋肉に見とれながら、ガウリイは手に持ったグラスから残り少ない酒を呷った。
猫が立ち止まった。

部屋の中央には、砕けた陶製のマグカップの破片が散らばっていた。
中味とおぼしき液体は染みとなって、すでに踏みならされた木の床に吸い込まれていた。
猫はじっと考えるように、その前で立ち止まっている。

かたん。
ガウリイが窓辺から立ち上がる。
空のグラスを持ったまま。
からり。
溶けずに残った氷だけが音を立てた。

まるで今にも泣き出しそうな、暗い曇天の空。
窓の向こうに、ガウリイは何を見ていたのか。
ガウリイは猫に向かって二、三歩踏み出した。
「そこ。危ないぞ。破片で足を切っちまう。」
言われてそれが何であるか、今気がついたように、猫がびっくりした顔をした。
じりっと後ずさる。
「どいてな。今、片付けるから。」
グラスをテーブルに置き、ガウリイは破片の前にしゃがみこむ。
破片の一つに手を伸ばし、ふと顔をあげると、猫の瞳と目があった。

「・・・なんだよ。オレが割ったんじゃないぜ?」
・・・・・
「あいつも、割るつもりじゃなかったんだけど、な。」
・・・・・
「でもいつか、割れるものだったのかも知れないな。」
・・・・・
「形あるものは壊れるって言うし。形のないものも・・・いつかは壊れるのかな。」
・・・・・
まるで謎なぞのような、不可思議な猫とガウリイの会話。
勿論、猫は答えない。
ただ不思議そうな顔で人間の顔をじっと眺めている。

物言わぬ話相手に、つい、ガウリイの口も緩む。
「あのな。・・・これ割ったのは、オレの旅の相棒なんだ。
いつも一緒で、今までその事にまったく疑問を感じないほど、何だかいつも忙しくて大変でおそろしい目にも会ったし、訳のわからない事に巻き込まれたりした旅だった。
まあ、それはそれで、結構楽しかったんだがな。」

小さな破片を拾い上げ、空いた左手の手のひらの上に乗せていく。

「人からは、どうして、なんてきかれた事もある。
一緒にいるのに、理由があるはずだ、と言う。
何故オレが。何故あいつが。一緒にいるのか、なんてな。
オレ達にとって、それはどうでもいいことだった。
どうでもいいことだった、んだ。」

苦々しげに吐いた言葉は、その質問を投げ掛けた人間に対するものだろうか。
彼と、彼女の間に、最初のヒビを入れた人間に。

「どうでもいい、ってわけじゃ・・・ないのかもな。
つまり・・・どう言ったらいいかわからんが。
オレがあいつと一緒にいるのは。
オレにとってはごく自然な事で。
今さら他人に説明してやるほどの事じゃないと、思ったんだ。」

猫が首を傾げた。
ガウリイは、突然目の前に現れた名も知らぬ猫に、説明してやらなければ、という己の衝動が生まれたことに苦笑いした。
何故だか、猫は答えを聞きたがってる。
そんな風に感じた。
インターバルを置くため、ガウリイはまたひとつ小さな破片を拾い上げた。
尖ったそれを親指と人さし指でつまみ、目の前に持って来てためすがめすつした。
胸の中の想いを、言葉に変換する間のために。

「何故かって言うと、な。
何故オレがあいつといるのが、オレにとって自然かって言うと、な。
オレの居場所は、あいつの隣にしかないから。
オレが帰りたいのは、あいつの隣しかないから。
オレがオレでいられるのは、あいつの隣しかないから。
他に、考えられないから。
だから。
オレにとってそれはごく自然で、単純な答えなんだ。」

破片の向こうに、ふっと浮かび上がった赤い瞳。
彼女は寂しそうにうつむき、半分顔を伏せていた。
何故そんな顔をする?
彼女のそんな顔を、目にした事はほとんどないというのに。
いつでも彼の前の彼女は、きらきらと輝く瞳を常に前方に向け。
迷わない指先が前を指し示し。
誰よりも早く駆けて行く。
お宝に向かって。
美味しい食事に向かって。
あったかいお布団に向かって。
あるいは、仕事に。
あるいは、彼女の行く手を遮る、様々な障害に向かって。
腰に手を当てて、自信満々なその姿を、容易に思い浮かべることができるというのに。
今この瞬間、彼が思いだす彼女の姿が、そのどれとも似ていないとは。

そしてそれは、彼が背中を向けていて、目にすることのなかった、彼女が部屋を飛び出して行く寸前の姿であることを、彼は知らなかった。


みゃおう。
問い掛けるような猫の声に、ガウリイははっと我に帰る。
ぼんやりとした痛みに気がつく。
指先から、鮮血が吹き出していた。



『いつか別れが来るなら、それは早い方がいいと思うの。
このままのんべんだらりと旅を続けるより、合理的ってもんでしょ。』
『それは、目的を持って旅をするヤツのセリフだ。
お前には、目的ってもんがあるのかよ。』
『あるわ。』
『それは?』
『・・・一緒に旅をするパートナーなら話すけど、これからお別れする人にわざわざ話してやるほど、あたしはお人よしじゃないわ。』
『・・・いつオレが、別れると言ったよ。』
『別れないとも、言わなかったでしょ。それは、いつか別れるからってことでしょ。
・・・だったら。
だったらあたし、今ここでお別れするわ。
あたしにだって予定ってものがあるし、あなたにそれをかき乱されたくない。』
『オレと別れるってのが、お前をかき乱すってことか。』
『違うわ。そんなんじゃない!』
『わからないな。つまりお前は、オレと別れたくないのか。別れたいのか。
・・・この際、はっきり聞いておこうか。』
『あたしは・・・・』



砕けた破片のひとつひとつに、彼女の言葉が刻み込まれているような気がして、
ことさらガウリイは丁寧に破片を拾った。
ある日突然、この部屋で始った、最初で最後になるかも知れない二人のケンカを、
この破片は知っている。
破片になる前に。
彼女が手にして、その温もりを確かめるように、何度も手のひらの中で揺らしていたハーブティーの入ったマグカップだった時に。

彼女の話は突然すぎて、ガウリイは最初、驚くばかりだった。
ようやく光の剣に代わる魔法剣を手に入れて、ガウリイはやっと自分を取り戻したような気がしていた。
とにかく、これで当面は武器の心配はなさそうだ。
リナの旅の連れとして、心配することは。
リナは有り難味がちっともわかってないとぶうたれていたが、そんな事はなかった。
十分、嬉しかったのだ。
そんな矢先。
ごろごろと遠い春雷が鳴るこの部屋に、リナがノックをしたのだ。
ガウリイには理解しがたい決意を秘めて。

彼と彼女は言い争い。(無論、そんな事は初めてだった)
本気で怒鳴りあい。(無論、初めてのことだ。)
とうとう彼は彼女に背を向けた。
彼女は言葉に詰まり。
彼の一言に、手に持ったマグカップを滑り落してしまう。
床に落ちて割れたのは、陶器だけだったろうか。
こぼれたものは、お茶だけだったろうか?
彼は振り向かなかった。
彼女も彼の方を見なかった。

ひときわ大きく雷が鳴り。
鳴り止んだ時には、彼女の姿は部屋から消えていた。
完全に閉まらなかった扉だけが、風に揺られてきぃ、きぃ、と鳴いていた。
雷はそれきり止んでしまい。
彼は一人で静寂の中に取残された。
ただ呆然として。
苦いものが胸に詰まって。
それを押し流そうとグラスを呷った。
透明なガラスのボトルが空になるまで。


猫は、彫像のように固まってしまった青年を見た。
器用に破片を避け、足元まで辿りついた。
じっと見上げても、青年は反応しなかった。
みゃおう
一声啼いてみる。
だがガウリイはじっと指からしたたる血を眺め、物思いに囚われていた。

ぺろり。
指先にざらざらとした感触。
驚いたガウリイは、びくっと身体を震わせた。
だがそれが猫の舌だと気付いて、すぐに緊張を解いた。
「なんだ・・・お前か。よせよせ、血なんか舐めると癖になるぞ・・・」
無造作に血のついた方の手を身体の脇で振り払い、その手で猫の頭を撫でた。
小さな頭蓋骨。
すっぽりと手のひらに納まってしまう。
猫は気持ち良さそうに目を閉じた。
何度も撫でるうちに、ガウリイの中に懐かしい感触がよみがえった。

『理由なんかいらないだろ。オレ達が旅を続けるのに。』
『・・・そうだね。』
くすぐったい彼女の笑顔。
何よりも大事だった。
手のひらの下の、彼女の髪も感触も。


「くそっ・・・・・」

振り払おうとすればするほど。
忘れようとすればするほど。
鮮やかによみがえる、色彩、声、温度、香、感触。
「どうやって忘れろって言うんだよ・・・・。
どうやってオレにお前を手放せって言うんだよ・・・・。
いつか別れる時が来るかも知れない。
確かにそれはそうだから、オレは別れないとは言わなかった。
だがそれは、決して望んで来る別れじゃない!
オレがお前と別れる時ってのは・・・・・・」
苦しげな声。
「お前を危険に巻き込みそうになった時。
オレが死ぬ時。
その二つしかないに決まってるじゃないか・・・・・っ。」


こんなにも彼女で一杯の頭を。胸を。
お前は切って捨てろというのか?

固く閉じた目蓋を、猫のざらついた舌が舐めた。
ガウリイは目を開き、無意識に猫を撫でる。
柔らかな背中。
手のひらの動きに沿って変化する体形。
咽を差し出すので、撫でてやる。
ごろごろと、まるでさっきの雷のような音がする。
猫を抱き締めると、猫は抵抗しなかった。
ただ低く、ごろごろと唸るだけ。

「言わなくちゃ、ダメか・・・。
言わなくちゃ、わからないのか・・・・。
オレが。
あいつと別れる気なんか毛頭ないってことを・・・。今さら。
あいつは恐れてる。
不安になってる。
オレと別れる時の事を考えて。
オレは考えたことがあるけど、彼女は考えたことがなかった、って顔だった。
思ってもみなかった事なんだろう。
それは・・・オレにとっちゃ嬉しいことだったんだけど、彼女には違ったんだ。
まるで足元が急にもろくなったみたいな顔だったんだ。
・・・オレは言ってやるべきだろうか?
オレは絶対に彼女の許を離れないと。
ずっとこのまま旅を続けるよ、と。
だけどもし、本当の別れが来たら?
その時、彼女は今よりもずっと、打ちのめされちまうんじゃないか?
ずっと一緒にいるって約束しておきながら、それをオレが破っちまったら。
例えそれがオレの意図したところでなくとも。
オレは彼女を裏切ったことになる。
・・・それでも。
それでも・・・・・・オレは言うべきだろうか。
彼女に。
リナに。
追いかけて、掴まえて、抱きしめて、
小さな頭に頬ずりしながら、どこにも行かない別れない、と。
告げるべきだろう・・・・か?」

猫の他には誰もいない、空しい空間に谺する彼の問い。
猫は答えない。
破片も話さない。
床の染みも、窓のガラスも、その向こうの曇天の空も。
答えは、そのどこにもなく。

猫が身を翻した。
「つっ・・・」
去り際に引っ掻いていった。
扉がまた、きぃきぃと揺れていた。
頬にできた新たな傷を指で探って、ガウリイは心を決めた。
窓の方を振り返る。
「探さないと・・・・濡れちまうな。」




ガガカカカカカカァッッ!!

突然の、耳をつんざく雷鳴。
ガラスが、がたがたと共鳴した。
ガウリイは耳を押さえ、目を閉じた。
鳴ると同時に部屋を包んだ閃光に。

「ふいーーーー。」
ぱちくりいいながら開いたガウリイの目に飛び込んできたのは、ほんの少し開いた扉の隙間から見えた、栗色の髪。
声をかけるより早く、身体が動いていた。
扉を勢いよく引き開ける。
「!」
驚いた顔の、リナが立っていた。
「ガウ・・・」

もうどうだっていいだろう。
一緒にいるのに理由がいらないように、彼女を離したくないと思う自分にも、理由はいらないのだから。
腕を伸ばし、性急に抱き締め、自らが口にした通りにその小さな頭に頬ずりしながら彼はただ、たったひとつの言葉を囁く。
顔を赤らめ、小さく頷き返す彼女も、そっと呟くように同じ言葉で答えを返した。
ざあざあと降り出した雨の音が、二人の言葉を包み込む。
他の誰にも、聞かせないように。

風が吹き、ぱたんと扉は閉まった。
彼の胸に顔を埋めながら、彼女が一声、
みゃおう、と啼いた。






















=================================えんど。
ふしぎしりーず!(今、命名・笑)
この世には、目には見えない闇の住人が・・・(それ前にもやったろ)
猫リナです(笑)

さて深くは説明するまい(笑)
ここまで読んで下さった方は凄い♪偉い♪ぱちぱち♪
深く感謝いたしまする♪
そーらより謎より深い愛を込めて(照れっ)
またお会いしませう♪
(我ら相出会う時、ひとつ星が輝く♪のだっ♪)

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