『滴』



 俺は、いったいどうしたというのだ。
 そんな疑問はもう幾度も、自分に投げつけた。その答えなど一向に、僅かな影すら見えやしない。 
 あの女の。
いや、リナ・インバースという人間の、行き着いた先を。
 俺はどうにも、見てみたいのだ。
 周りのモノさえ引きずり込んで、どちらを向いているかなんて事は問わずに、ただひたすらにがむしゃらに前へ進んでいく。そうしていつか、辿り着いた先での、その姿を。
 粉々に砕かれたその破片の、一欠片が土塊に混じるのを。燃やし尽くされた灰の一握りが風にさらわれ、散っていく様を。
 そうしたら、俺は。恐らく出来るんじゃないかと、そう思うのだ。
 
 俺がいつからこんな風に思い始めたのかは、もうはっきりとは判らない。
 それは、たぶんぼんやりと、白い雪片が舞い積もるように、知らないうちに幾度も積もり。そうしていつか視界の全てを埋め、溶けることのない根雪へと変わるのだ。
 
 必ず、勝つつもり。
 魔王との戦いが目の前に立ちふさがった時、つもりなどという言葉とは裏腹に、傲慢なまでの声音であいつは言い切った。
 その瞳はまるでちょっとした溶鉱炉みたいで、眼を眇めなければ、到底直視出来なかった。そうして口の端を一直線にひくようにして、笑っていた。
 そして俺とガウリイの旦那が顔を見合わせたその視界の端で、僅かに伏せた眼がその頬に影を落とす。大きなはぜる音と共に焚き火が揺らぎ、そのせいで一度だけ微かに、その影が震えたように見えた時だろうか。

 宿屋の一階にある食堂兼酒場で、安い酒と古い油と胸を突く煙草の匂いが充満する中、獣脂の落ち着かない灯りが投げかける影が、瞬くように揺れる。
 だされた料理はあらかた片付き、無理を言ってデザートと食後の香茶をせしめたリナは、訳知り顔で次の町の説明をしていた。      「と、いうことよ。だから」
 言葉を切って、ちらりと反応を伺う。 
「ちょっと、ちゃんと聞いてるの?」
「いや、半分だけ」
 案の定、悪びれもせず言葉を返した男の頭に、何処から取り出したか判らないスリッパで、派手に乾いた音をたてる。
「全く、自分から聞いておいて」 
 痛む頭を抱える男を尻目に、落ち着いて座り直した少女は、香茶を一口、口に含む。
 小さくそれを飲みくだしても、まだ治まらないのか、眉間に皺が寄っている。
「くらげ」
 呆れを含んだ怒った声が、香茶の湯気を揺らす。 
けれども、何の飾り気もない白く厚い陶器の底は、安定の悪い傷だらけの古い卓に殊更ゆっくりと置かれ、ことりと微かな音をたてた。この柔らかい音を聞いたときからかも知れないし。
 
「たぶん、大丈夫よ」
 アメリアの様子を訪ねた俺を射殺すほどに凝視して、もう普段と何ら変わらない声で答える。
 息を吐いて僅かにこもった肩の力を抜いてから、ふと気が付いた。こちらに向けられていると思った視線は、俺の身体を突き抜け、もっと先の何もない中空を、これでもかという程睨め付けていたのだ。
 怒りも憎しみも驚愕も悲しみも弱さも、もうその表情には現れていなかった。
 それらの全てが凝縮し、冷え固まったものが、その瞳の奥にちらりと見えた気がした。それはふいと上げた眼差しに一瞬だけ覗いただけで。 たぶん俺の背後から射す太陽の光を跳ね返しただけだったのだろう。
 そんな思い違いをした時からかも知れない。
  
 この俺の中にある想いが、恋ではないかと考えた時ももちろんあった。
 だが、違うのだ。これは、そんなモノじゃない。
 これは、リナとその自称保護者との間にある様な、暖かい動かし難いモノでは、決してない。黒い髪の姫様の、その瞳にある、居心地が悪くなるほどの真っ直ぐな何かですらない。
 これは、相手との間で、遣り取りすることはなく。
 リナと出会う以前から、俺の中で燻り続ける想いが、リナという人間に押され突つかれ潰され転がされ、形を変えただけだった。
 その時ならば、俺は。
 恐らく出来るんじゃないかと、そう思うのだ。
 この冷たく乾いた岩の身体以上に乾ききり、ざらついた心の何処かから、何かを絞り出すことが出来るんじゃないか。そう思えるのだ。
 それは真っ直ぐに訴えてくる少女の瞳にさえ落としてやることが出来ない何かのひとしずくで。
 俺という存在が、この身体の中で、確かに三分の一は生きているのだという証。その方法を憎んだとしても、あの時もそして今も、強さを望んだことを決して後悔しない為の何か。俺を生かすために命を失う全ての生き物に対する言い訳。
 もう土塊と変わりない程砕けた破片が散らばる、暗い大地に。
 舞い上がる灰を掴もうと、虚しく空をきる掌に。
 そこにならば、俺は。
 ギリギリと音をたてて絞り出したその滴を、一粒なりとも落とすことが出来るのではと。
 そう、思うのだ。
 

   


                      

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