「CRAZY LOVE」 


  恋情は、狂気に最も近しい感情。


  新大陸での事件も、一応片がついた。
  フィリアと別れたのは、一昨日のこと。さらにそれぞれ別の道へと歩くことになる数日前。
  埃っぽい道の端で、ゼルガディスはガウリイと町への道を眺めていた。宿の手配をしてくれる
 ことになっていたリナとアメリアが戻ってくる姿が、遠くから見える。
 「ガウリイさん、ゼルガディスさーん!」
  パタパタと、手を振りながら少女が駆けてくる。
  曇りのない笑顔、真っ直ぐな眼差しを微笑ましく思う反面、心の中で何かが騒ぐ。
  ――……タイ。
  ごく小さな囁きは、彼自身の喉の奥で声となる前に消えた。
  しかしそれは、ゼルガディスの心の湖に波紋を描くべく投げられた、最初の小石だったのかも
 しれない。
  近寄ってくるアメリアから目を逸らし、ゼルガディスはそっと息を吐いた。
 「ん、どうしたんだゼル?」
  ガウリイの声に、ゼルガディスが答える前に、
 「今夜の宿は決まったわよッ!」
  アメリアと共にやってきたリナが笑顔でそう言った。


  始まりは、酒場のいさかいだった。
  酒がこぼれただとか、つまらない原因の酔っぱらい同士の喧嘩を、例によって例のごとくアメ
 リアがいさめに行ったのである。
 「些細なことにこだわり、周囲に迷惑をかけるとはすなわち悪!! 
 今すぐ改心なさいっ!」
  テーブルの上にのっかって、演説している彼女も結構な迷惑だと思うが、関わりたくなかった
 ゼルガディスは、料理片手にヤジを飛ばすリナと、やはり食べながら観戦しているガウリイの後
 ろ、ひとり食事を続けていた。
 「おっしゃ、そこだーっ!!」
 「ををっ、右ストレート決まったぁっ!」
 「リナさん、ガウリイさんまで……」
  ふたりが応援に励んでいるのに気が付いたアメリアが、がっくり肩を落とす。だが、無論それ
 しきのことでは諦めるはずもなく。
 「改心しないのであればっ、わたしが正義の裁きを下しますッ!」
  バッとテーブルから飛び降り……
  ずしゃっ!!
  テーブルクロスに足を引っかけて転んだ。拍子にシャンパンが彼女の頭上に降り注ぐ。
 思わずフォークを動かす手を止めてしまったゼルガディスの視線の先、しかし、アメリアはすぐ
 さま立ち上がるとタタッと乱闘の中に紛れ込んだ。
 「あ、アメリア待ちなさいよ!」
  続いてリナが栗色の髪を翻し。
 「リナ……の、前にいるおっちゃん、危ないぞ!」
  彼女の保護者までもが結局参戦した。
  リナ達三人が加わった乱闘が、混沌を呼ぶまでそう時間は掛からず。ゼルガディスが食事を
 終えワインを一本空けた頃には、勝者も敗者も解らない状態で、立っているのは彼の仲間三人
 だけになっていた。
 「はぁ、すっきりした!」
 「おいリナ、オレのターキーどさくさに紛れて喰ってなかったか?」
 「さてね〜?」
 「あー、やっぱりっ!」
 「あんたが迂闊なのよっ」
  恒例夫婦漫才が始まり、喧嘩だかじゃれあいだかを始めたリナとガウリイを横目で見ながら、
 そろそろ潮時か、とゼルガディスは席を立った。
 「……ん?」
  部屋に戻ろうかと階段に足をかけたところで、小柄な背中が戸口に向かうのを眼にした。
 「……アメリア?」
  少女は何故かふらふらと外に出ようとしていた。
  酔っているのかおぼつかない足取りに、放っておけなくなったゼルガディスは、小さく舌打ち
 してその後を追った。


  外は、満天の星空だった。
  ひんやりとした空気が、わずかに帯びていた酒気を払う。ゼルガディスは少女の姿を求めて
 目を凝らした。程なくして、草原に座り込んでいるアメリアの姿を見つけ、ほっとしながら歩み
 寄る。
  物思いに沈んでいるのだろう、アメリアは膝を抱えて下を向いている。うつむき加減でよく
 わからないが、その横顔がひどく寂しげに見えて一瞬胸を突かれた。そんな自分に苛立って、
 ゼルガディスは少々ぶっきらぼうに言葉を紡いだ。
 「こんな時間に、何をしているんだ?」
 「あ、ゼルガディスさん!」
  さっきの横顔が錯覚かと思うほど、鮮やかな笑顔でアメリアが顔をあげた。弾んだ声に、大
 きな瞳に、誰かが何かを呟いた。
  ――テ、シマイタイ。
  しかしその呟きを聞き取る前に、アメリアがゼルガディスの袖を引いた。
 「シャンパン被っちゃったんで、酔いざまししてたんです。ゼルガディスさんも、座りません
 か?」
 「あ、ああ……」
  少女の隣に、請われるままに座り込む。
  草の匂い、土のそれが近くなる。自然に、あるがままに存在するモノ。
  歪められた己とは、異なる、モノ。
  わずかな沈黙を先に破ったのは、アメリアだった。
 「あとちょっとで、セイルーンへの道ですね」
 「そうだな」
  アメリアが何を言いたいのかわかっていたが、ゼルガディスはそれをあえて無視した。
 「わたし……セイルーンに、帰ろうと思います。リナさん達は、南西の方に伝説の剣の噂を聞
 いたから、そっちに向かうらしいですね」
 「…………」
  次に訊かれること――己の行き先――を予期していたが、アメリアは何故かクスッと笑うと
 空を見上げた。
 「空って、すごいですよね」
  何が言いたいのかわからず、眉をしかめたゼルガディスに、アメリアがにっこり微笑みかけ
 る。
 「どれだけ離れていても、空はずっと繋がってるんですから!」
  素直に、自然のままに、形作られた笑顔だった。
  心も体も、歪められることなく育ったことが、その笑顔からかいま見えた。
 「だから、寂しくないんです……わたし」
  そう告げるアメリアを、本来ならば健気だと思うべきなのだろう。事実、そう感じている
 部分もあるのだが。
  ――ワシテ、シマイタイ。
  ざらつく感触。小さな囁きが、針のようにちくちくと内部から胸を刺す。凶暴な感情の破片
 が、意識を脅かす。
 「どうしたんですか、ゼルガディスさん?」
  ひょいと、アメリアが顔を覗き込んできた。間近で見ると酔いが回っているのか、目元が
 ほんのり上気している。潤んだ大きな瞳が、目の前にある。
  ……鼓動が、妙にはっきりと聞こえた気がした
  手を伸ばしたい衝動に駆られ、反射的にギュッと拳を固める。
 距離が、あまりに近くて……目眩がしそうだった。
  艶やかな髪、ミルク色の肌、果実を思わせる唇……。
  離れなければ、と、そう思った。
  ひどく手に負えない感情を、その在処を、知ってしまう前に。
  だが、離れたいのに、逃げ出したいのに、身体は硬直して動かない。
  彼女から逃げ出して……自分のことだけ考えていた頃に戻れれば、どれだけ楽かと思うのに。
 「ゼルガディスさん?」
  アメリアのてのひらが、そっと彼の頬に触れる。
  やわらかく暖かい、肌。
 ぬくもりを知ってしまったら……知らなかった頃には戻れない。
 大きな瞳に、彼自身が映る。
 岩の肌を持つ、歪められた存在の、合成獣が。
 ――壊シテ、シマイタイ。
  呟いていたのは、彼自身の声だった。
  瞳に心配そうな色を浮かべるアメリアの肩を、ゼルガディスは掴んだ。
 「――――!!」
  腕の中、アメリアが声にならない声をあげる。
  自覚なんてしたくなかった、ずっと気が付かない振りをしていたかった。彼女の想いも、自分
 のそれも。
  アメリアの眼差しに感じた苛立ちの正体は、
  ――惹カレル事ヘノ恐怖。
  子供のような笑顔に安心する、その傍らで願っていたのは、
  ――壊シテ、自分ダケノモノニシタイ。
  気が付かないまま、別れられたら幸せだったかもしれない。
  ――ダケド。
  もう、遅い。
  引き返すことなんてできないくらい、惹かれていることに……気が付いてしまった。
 「ゼルガディスさん?」
  アメリアの声、どこか不安げなそれに、感情が揺れる。
  壊して、いっそ自分の場所まで堕ちて欲しい、自分だけのものにしてしまいたい、それと
 同時に、自然のままの笑顔を守ってやりたいと思う。矛盾した想いで、胸が裂かれそうだった。
 「アメリア……もし、俺が」
  残酷な問いだと解っていても、訊かずにはいられなかった。
  彼女の好意は知っていても。
 「お前に、セイルーンを捨てて付いてこいと言ったら……どうする?」
  アメリアが、息をのむ気配が伝わってきた。
  ゼルガディスの心臓に、鈍痛が走る。
  期待によるモノか、不安によるモノか、それとも、その両方か。
  アメリアの背に回した腕は、強張って動かない。
  彼女の返答で、自分がどうなるのか、見当が付かなかった。
  ゆっくりと、アメリアが顔をあげた。
 「セイルーンを、捨てることはできません」
  一瞬、息ができなかった。
  だがゼルガディスの腕が力を込める直前、アメリアの言葉が続きを告げた。
 「でも、ゼルガディスさんが望むなら、一緒にいきます」
  真っ直ぐな瞳が、ゼルガディスを捕らえる。
 「最期まで、ずっと、一緒に生きていきます。正義は、きっと……セイルーンにいなくても、
 行使できますから!」
  アメリアらしいと言えば、あまりにらしいセリフに、ゼルガディスは目を見開き、そして思わ
 ず苦笑した。
 「……冗談だ」
 「え?」
  ゆっくりと、アメリアを抱きしめていた腕を緩める。片手で、そっと少女の髪に触れた。
 「ついてこいなんて、言わないさ。お前が、言ったんじゃないか?」
  苦笑から、真実の微笑へと少しずつ表情を変えながら。ゼルガディスはアメリアの髪を
 梳いた。指の間をさらさらと、黒髪が流れていく。
 「セイルーンに来いって」
 「……でも、ゼルガディスさん?」
 「何時行くとは言えない、だが……会いに行くさ」
  狂気にも似た、この感情を飼い慣らせるようになったらきっと。
  ……あるいは、押さえられなくなったら。
  心の内でそう呟いたゼルガディスに、アメリアは腕にはめていたリストバンドの一つを差し出
 した。宝石の護符がついたそれは、彼女がずっと身につけていたモノだ。
 「じゃあ、約束ですよ。忘れないように、おまじないです」
 「……解った」
  アミュレットを受け取り頷いたゼルガディスに、アメリアがほころぶような笑みを浮かべた。
 歓喜に近しい痛みを感じて、ゼルガディスはそっと少女を抱きしめた。


  いつか、きっと。
  君に逢いにに行こう。
  狂気に近い、恋情を左手に。
  約束である、護符を右手に。
  自然なままの君を両手で抱きしめるために。

















END.