『空を徃く』


  
 
 紙一重の瞬間だった。
 と感じるのは、全てが終わってからのこと。
 儚く消えてしまうから、尊いものと思っている命の灯を。
 いとも簡単に拭き消してしまう嵐の中。
 必死に掻き集めた精神の糸を切らさないよう、限界を越えてなお酷使した体の痛みと感覚が戻ってくる頃。
 ようやく、息を吸い、吐き出し。
 自分が生きていることを体感してから。
 一筋の汗と寒気が教えてくれる。 
 紙一重だったのだと。
 生きていることと、生きることができなくなることの境界線は。
 
 
 「何を見てるんだ?」
 窓から夕陽を眺めていたリナの背中に、ガウリイが声をかけた。
 「ん〜。別に。何となく見てただけ。
 何を……ってんじゃなくてね。」
 窓際に置いた椅子に逆向きに座り、背もたれに両腕をかけ、その上に顎を乗せていたリナが少し不明瞭な声で答える。
 振り向くことなく。
 「お日さまってやつは、どーして毎日毎日、飽きもせずにおんなじ方から昇っておんなじ方へと沈んでいくのかしらね。
 たまには逆に沈んでみよーとか、沈むと見せかけてひょっこり昇ってくるとか、そーいう気のきいた小技でも見せてくんないかしら。」
 「そりゃあ………」
 ベッドの上で腕組みをしていたガウリイは、天井を眺めながら答える。
 「Aランチを五人前頼んでおいて、今日は食欲が湧かないからって残すリナみたいなもんか?」
 「………どーいう意味よ、それ。」
 「つまり奇跡ってやつ。」
 「天体の進行とあたしの食欲を同列にする気かおまいわっ!」
 思わず振り返ったリナが突っ込む。
 ガウリイはどうどうというように、鷹揚に両手を振る。
 「普段見れないものが見たいってことだろ。
 たとえば、拾った金貨をこっそり懐に入れるアメリアとか。」
 「あの正義オタクが?ありえないわね。」
 「拾った子猫をマントにたくさん隠しもってるゼルガディスとか。」
 「意外な一面でますます好感度アップってか。
 それならもっと意外なもんがもっと身近で見れるわよ。」
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、リナが椅子から離れる。
 ガウリイが足を長々と伸ばしているベッドの端に片手をつく。
 「たとえば。
 夕陽を見て、『真っ赤だな』とか『でっかいな』とか『美味そうだな』
 以外の感想を言うガウリイよ。」
 そう言って、パジャマの襟元をつつく。
 「ほら。言ったんさい。
 なんか、こ難しそーなことを。
 あたしが『ををっ!?ガウリイのくせに、やるぢゃないっ!?』みたいなセリフを漏らしてしまいそーになる、センスとウィットに富んだオトナの格言を。
 ほり。ほりほり。」
 つんつん。
 つつかれたガウリイは、リナの顔ごしに窓をちらりと見た。
 「思いつかないでしょーが。ほりほり。
 参ったたまげた脱帽だ、リナ様に口で勝とうなどと100万年早うございました、どうぞお気の済むまでツッコみ倒して下さいと言うのよ。ほり。」
 「……………」
 夕陽から目を離したガウリイの指が、つつき続けていたリナの指をつかんだ。
 「な、なによ?」
 突然触れられて、リナが息を飲む。
 その顔をじっと見つめて、ガウリイが言った。

 「夕陽は沈んで終わるんじゃない。
 また明日昇ってくるために沈むんだ。
 …………終わりじゃなく、始まりなんだ。」
 
 「………………!」
 ガウリイの視線の中で、リナがゆっくりと唇を開いた。
 リナの指を握ったまま、ガウリイは静かに微笑んだ。
 「そう思えるようになったのは、お前さんがいたからだ。リナ。」
 「…………………」
 口を開きかけたまま、何も言えなくなったリナの指を放し、ガウリイはもう一度夕陽を眺めた。
 空気の抜けた袋のように、リナはベッドにぺたりと腰を落とし。
 ガウリイにくるりと背を向けた。
 「なによ、それ。なんか、ズルい。」
 「本当の事を言っただけだ。」
 空を朱に染め、山を黒い影に変え、不吉な光景を再現することもあれば、ただ優しく黄昏へ導く暖かい衣をまとう夕景に。
 寂しさを感じなくなったのはいつの頃からだったか。
 心は覚えていた。
 
 ガウリイは片手を上げ、背を向け続ける線の細い肩の上に置いた。
 「沈むために昇るんじゃなく。
 昇るために沈むんだ。
 そうやって日がまた昇ると、オレはお前さんにおはようって言って。
 一緒に飯食って、バカやって、仕事して。
 また日が沈んでも。
 次の朝の中にも、お前さんがいる。
 空を見て、森を歩いて、風に吹かれて、川を渡る時。
 傍にいて、同じものや違うものを見て、言葉を交わす。
 そんな毎日が、変わりなく続いて欲しいと願う。
 夕陽は終わりなんかじゃなくて。
 新しい一日を始める準備なんだって。
 だから普通に沈むのも、悪くないなって思えるんだ。」
 一言一言、ゆっくりと呟くようなガウリイの声に。
 手の下の肩は、少し揺れたように見えた。
 
 「………参った。」
 微かな囁きが、背中の向こうから漂ってきた。
 ガウリイでなければ拾えないような、ごく小さな声で。
 普段の彼女ならば決して軽々しく口にしないような、降参の言葉が。
 「確かに。そう思えば、悪くないわね。夕陽が普通に沈むのも。」
 普段よりも優しい色を滲ませて。
 「………だろ。」
 頷いたガウリイが引っ込めようとした手を、リナの言葉が留めた。
 「新しい一日を始める準備、か。
 あたしも………準備しなくちゃね。明日はやってくるんだし。」
 「だな。
 その前に、少しでも休んでおいた方がいいと思うぞ。」
 気がついてはいた。
 隣の部屋から、眠っている気配がすることより。
 眠れずに、輾転反側している様が手に取るように多いことに。
 労りを込め、引っ込め損なった手で肩を軽く叩く。
 「…………………。」
 リナの沈黙が長引いていた。
 今までに見えなかったものを見るように、ゆっくりと夕陽を眺めていたからだろうか。
 ふいに、肩にかけたガウリイの手に冷たいものが触れた。
 吹きさらしの中にいたかのような、冷えきった指先が。
 「………ちょっとだけ、休もうかな。」
 さっきと同じように小さい声だった。
 ガウリイはそれを拾い、その意味も拾った。
 「お安い御用だ。」
 ふわりとリナの体が傾いだ。
 ガウリイは手を肩から襟首に回した。
 彼女が寄りかかりやすいよう、片膝を立てる。
 顎の下に、ふわふわした髪の毛が触れた。
 パジャマの袖から伸びた腕に、リナの声が落ちてくる。
 「ちょっとだけ休んだら……」
 「……また、次の旅に出かけるんだろ。」
 「……わかってるじゃない……」
 「長い付き合いだから、な……。」
 「……そーね……。」
 気配が薄れるようにして、声が小さくなり、途切れた。
 
 微笑み一つ残して、ガウリイは顔を上げる。
 薄い衣を幾枚も流したような雲が漂う黄昏の空へ向けて。
 今までと同じ世界。
 それを同じと思えない心だけが、違う景色を見せる。
 
 今この景色を目にすることのできる者と、できない者の差は。
 紙一重で。
 この温もりを失ったかも知れないと思うと、恐ろしくて、一歩を踏み出す勇気が消されてしまいそうになるけれど。
 残酷で、恐ろしいこともあるこの世界は。
 やはり綺麗で、美しくて。
 できるならば、暗い道ばかり選ばずに、奇跡のような日々の営みと、違いの顔を見ることができる、昼の道を選んで歩きたいと思う。
 そう思うことは、止められなかった。
 「……………………」
 見守るうちに、陽はゆっくりと傾き。
 今、最後の黄道光をきらりと反射させて飛び立った一羽の鳥が。
 何も恐れず斬り裂くように飛翔する。
 また別の一羽が。
 ゆったりとその後を追うかのように翼を広げる。
 
 二羽の鳥には飛び切れない、無窮の空へ。
 
 「こうやって………生きてくんだな、オレ達。」
 
 誰にでもなく呟いた言葉に。
 その意味を知るたった一人の少女の顔が。
 頷くように微笑んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ----------------------------------------おしまい。
 
 
 15巻最後の方の、あのシーンの後をちょっと思い出しながら書いてみました。
 ちょっとだけ泣いたリナは、泣き顔を誰かに見られるのも嫌だろうし。窓から外を眺めてたかも知れないな〜なんて。
 朝焼けは清清しいものですが、夕陽を見ることの方が数としては多くて、時間が許すなら最後の光が消えるまで、ゆっくりと見ていたいものです。ただ綺麗だと思う時もあれば、何か物悲しくなったり、何かが懐かしく思い浮かんだりして、自分では気づかないものを写す鏡でもあります。
 哀しくて嫌なこともあるけれど、太陽が沈んで昇るように、また新しい光を生むことができれば、長い道も飽きることなく進んでいけると思います。暗いとこばっか見てないで、明るいところも見ましょうや。とニュース番組にツッコみつつ。
 ここまで読んで下さったお客さまに、愛を込めて♪
 夕陽の中、友達と手を振って別れる時。
 いつもより、別れがたい気持ちになったことがありますか?
 そーらがお送りしました♪
 
 
 
 
 
 
 


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