「胸の風穴」



 びょうびょうと風がむせび泣く。
 水無き河にはこうべのひびより枯れ草生ゆ。
 鼻孔を満たすははがねのかおり。
 錆びと腐食と侵蝕と。
 ただおのれの目のみ疑うべき。

 
 


 山腹の中央に小さな天然の洞窟があった。その周囲は何かに怯えたように木の一本すら生えず、赤茶けた地肌をさらした寂しい場所となっていた。陽はまだ高かったが、そこでは光すら青いガラスを透過したような弱いものしか届かないようだった。

 風が吹いていた。だが洞窟にそれが入り込むことはなく、ただかん高い悲鳴のような風鳴りだけが響く。頭上の空を、バンシーと呼ばれる、人の死を泣き叫ぶことで伝えようとする哀れな妖精が群れをなして通っていくようだった。もっとも、洞窟の主には違う風に聞こえているのかも知れないが。
 風の入らない洞窟の中は蒸し暑かった。昨日の夜の驟雨が空気の中に帰り、湿気となって留まっている。
 なにも動かなかった。
 この時期に見られる羽虫すら飛ばず、蝙蝠やその他の暗所を好む生き物も見当たらない。この洞窟に生きて呼吸している生物は主だけで、その主はこの何日かというもの身じろぎひとつせず、ただ黙って柵の外を眺めていた。

 そこになにが見えるというのだろうか。

 
 



 山道を少女が歩いていた。
 汗ばんだ額を風に撫でられながら臆する風でもなく、少女は途中で山道をそれた。
行く手には、死んだように静かな赤茶けた大地。鳥も飛ばない、と発った町の人間は噂していた。人の近付かない、恐れられた土地。
 だが彼女にとって行かなければならない土地。
 やがて洞窟の入り口が見えてきた。


 そこは冥府への入り口もかくやと思われる、影と闇の住まう場所だった。光も、風も入らない。入り口には柵。雨風にさらされて錆びつき、変形した細い鋼鉄が幾重にも編まれた柵は、まさに檻だった。人が洞窟に入らないようにするというより、洞窟の中にいる何かを外に出さないための。
 少女が柵に手をかけると、低く唸る声がした。


 「・・・いるの?」

 誰にかけるともなく、少女は声に出してみる。
 闇の中に、わだかまるなお暗き影。両腕を伸ばし、前につき、足を膝で折り曲げて、まるで獅子のごとく座している。真っ黒な大量の毛髪が、その体をたてがみさながら縁取っていた。両の手首、足首、そして首輪に太い鎖がつながっている。忌まわしいその姿は、しかし人間そっくりだった。

 「・・・なんの用だ。」

 食いしばった口から、押し殺した声が洩れる。それは言語だった。

 「用があるから、来たんじゃない。」
 少女は皮肉な笑みを浮かべる。柵をはさんで、少女と闇の住人が対峙する。
 「わざわざこんなとこまで世間話をしに山を登っていく人はいないでしょ。」
 少女は、まるで相手が普通の常識を持った人間であるかのように、おどけてみせた。その態度からは、怯えたような感じは微塵も感じられない。

 また低いうなり声。

 「用があってもなくても俺にはどうでもいいことだ。」
 「・・・そうね。あんたには、関係ないことなのかもね。」
 「お前は誰だ。」
 「・・・あたし?」
 少女は、人さし指を自分に向けて、何故だか少し寂し気に笑った。 
 「・・・どうでもいいじゃない。そんなこと。」
 「・・・・・」
 「・・・あたしの用はね、・・・あんたに会いにくること。」
 そう言うと、少女は柵に手をかけた。途端に、影が素早く動いて柵からもっと遠くに飛びすさった。驚いた少女は柵から手を離す。
 「・・・なにを怖がってるの?・・・もしかして、あたしが怖い?」
 
 一週間ぶりにその場から動いた影は、しかし息ひとつ乱してはいない。
 「ふもとで聞かなかったのか。」
 「ん?ああ、聞いたわよ。山中に潜む、人喰い鬼のうわさ話をね。」
 お天気の話でもしているように、すらすらと答える少女。
 「あたしが物見遊山で来たと思ったの?」
 「・・・・・」
 「まあ、あんたに会いに来たのは確かだけどさ。」
 どさり、と少女は柵の前に座り込んだ。その動きにまた影が身構える。
だが少女は膝を立て、両手でそれを抱えるようにして柵の向こう側をまっすぐに覗き込んできた。

 この少女の何もかもに、影は注意を引かれていた。

 今までこの柵の前に立ったものがいなかったわけではない。遊び半分で来る子供、
豪壮な剣を携えた騎士、売れない魔導士、自称聖者。みな、自分の名をあげようと勇んできたものの、いざ影の前に立つと、唸り声をひとつふたつあげるまでもなく、退散して行った。



 しばしの沈黙が流れる。



 「・・・静かね。」
 ぽつりと少女が言う。
 「・・・・・」
 答えはない。
 「こんなとこにいて、退屈じゃないの?」
 「・・・・・」
 「あたしならとっくに柵をぶっ飛ばして、さっさとおんでてるわ。
 こんなとこにいたって、お腹がすくし、退屈だし、何にも変わらないもの。」
 ぴく、と主の頭が動いたような気がした。
 「あんたは、こんなところでなにやってんの?」
 少女は洞窟の内部を見すかそうとするが、ほとんど光がないため、細部まで見渡すことはできない。もしかしたら、奥の方に骨の一つも転がっているかも知れないと少女は考えていたが、それは確認できなかった。
 「こんな暗くて狭っ苦しいとこで、なにを我慢してるの?」
 「・・・我慢?」
 
 意外な言葉を聞きでもしたように、影はほんの少し身じろぎした。人間と会話を交わしたのは久しぶりだった。まだ自分の中に言葉が残っていたことに、驚いたせいかも知れない。影は、この少女に興味が湧いた。

 「・・・俺が、我慢していると?」
 「だって、そうでしょ。こんな柵、あんたにとっちゃ紙切れみたいなもんよ。
出ようと思えば、いつでも出られるじゃない。なのに、なんで出ないの。」

 この疑問に対する答えは、自分の中に見つからなかった。
 影は、少女の言葉を反芻する。
 何故?
 思い出せない。

 「いつからここにいるのよ。」

 この疑問にも答えられない。
 時間の感覚はとうに消え失せ、己が昨日何をしていたかも思い出せない。

 「どしたの。何も言えないの。」

 答えに窮している自分に気がつく。
 少女の疑問に答えようと、かすかな記憶を辿ろうとしていることに。
 いつ。
 どうして。
 
 だが何故、この少女に答えなければならない?
 取るにたりない、ちっぽけな少女。
 追い払えばいい。
 何も答えてやる必要など、ないというのに。

 
 少女は膝を抱えたまま、こちらを見上げていた。
 その瞳にあるものは、恐れではなく、ただひたむきに、何かを訴えかけている。
 人間らしい感情などなくしてしまった影の心に、さざ波が立ち始める。

 「俺が怖くないのか。」
 「・・・・。どうして、皆はあんたを怖がるの?」
 疑問にまた疑問が帰ってくる。
 「ここに来た人間は、皆俺を恐れる。」
 「どうしてそんなに怖がるのかしら。」
 「わからない。俺が、人を殺したからだろう。」
 「殺したの?」
 「覚えていない。」

 影がそう言った言葉に、少女は意外にも、くすりと笑った。
 「・・・何故笑う?」 
 「ん。いや、別に。なんか、あたしの自称保護者のことを思い出したの。」
 「・・・?」
 少女は両手を組んだまま、腕を伸ばす。
 その指先を見つめる。
 「おおボケなにいちゃんでね。下手すると、三歩歩くともう前のことは忘れちゃうの。へ?とか、何だっけ?とか、オレそんなこと言ったっけ、とかが口ぐせで。」
 「・・・・・」
 「今頃どうしているやら。」
 「・・・一緒じゃないのか。」
 この問い掛けに、少女はまた、少し寂しそうな笑顔を返す。
 「そおなのよ。一緒じゃないの。まったく保護者のくせして、どこうろついてんのかしらね。」
 「・・・・・」
 檻の中には静寂だけが漂う。


 
 「いつまでこうしてるつもり?」
 少女は立ち上がった。
 ぱたぱたと、マントについた埃をはたく。
 「・・・・・?」
 「だから。いつまでそこにいるつもりなの?あんた。」
 「どうしろと言うんだ。」
 「出てきなさいよ。」

 柵を指差す。
 「そんなの、簡単に壊れるわよ。鎖だってちょっと引っ張ればとれる。
 あんたは閉じ込められているんじゃなくて、自ら閉じこもってるだけなんだから。」
 指先に小さな炎がともる。
 「なんなら、あたしが取り除いてあげるけど。」
 「魔道士か。」
 「それもとびっきりよ。だからこんな柵、ひとひねりだわ。」
 「誰かに依頼されたのか。」
 「依頼?」
 「俺を、殺すようにと。」
 「だったら、どうする?」

 炎が、縦に細長く吹き上がる。

 「別に。いつでもやればいい。」
 「・・・・・」
 黙って指先に炎を揺らめかす少女に、檻の住人はこう告げた。
 「俺はあんたみたいなのを、待ってたのかも知れない。」
 「黙って殺されるために?」
 「ああ。」
 「待ってるだけ?死にたいなら、勝手に死ねばいいじゃない。」
 「・・・・・・・」
 思いもかけない、少女の鋭い言葉。
 「殺しに来たんじゃ、ないのか。」
 「そんなこと、一言も言ってないわ。」
 「では何しに来た。」
 「あんたに会いに来たのよ。」

 「・・・・・」
 指先から、炎は消える。
 少女は、ぐったりと座り込む。
 「俺を知ってるのか。」
 「それより質問に答えて。どうして、死にたいなら自分で死ななかったの?」
 「・・・・・・・ぐ。」
 答えは、文章になっていなかった。
 影は頭を抱えていた。
 割れそうにそこが痛むのだ。
 突如として始まった、うるさいほどの耳鳴りに襲われながら、影は目をすがめる。
頭の中のどこか遠くの方で、点滅しているひとつの光景に気付く。
見覚えはなく、自分の記憶かどうかも定かではないが、目にした通りのことを、何とか言葉にしてみる。
 「・・・約束、だ・・・・・・・」
 「約束?」
 「決して、自分から命を、断たない、と。」
 「誰としたの、その約束。」

 晴れた草原。
 青い空。
 気持ちの良い風。
 誰かの指が、自分の小指にからんでいる。
 声がささやく。「約束よ」と。
 だが思いだせなかった。
 
 「・・・・わから、ない。」
 「だから、こんなとこでじっと、誰かが授けてくれるかも知れない死を待ち続けてたって、いうの。」
 「・・・・・」
 「何故死にたいの。」
 
 また違う光景がひらめく。
 頭痛は今や、頭から大きな獣のあぎとにばりばりと食われているかのように猛烈に痛んでいた。容赦なく、浮かんだ光景が目の奥を灼く。
 「・・・・俺が、殺した・・・・・」
 「誰を。」
 「俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、殺した・・・・・」
 「だから、誰を。」
 
 鮮血に染まる、おのれの手のひら。
 ぬるぬると剣の柄が手から離れていく。
 振り返ればそこに、グロテスクな道ができていた。
 オブジェのような死んだ人間の肉体の山。
 でこぼこと道を形作る。
 今まで歩いてきた道が、全てこうだったように。
 一番手前に、鮮血の血溜まり。
 その中に、小さな人影が横たわる。
 驚きに目を見開き、何かを訴えるように腕をこちらに向かって伸ばしたまま。
 髪も、服も、マントも、身につけた色とりどりの宝石も、赤く赤く染まっていた。
 
 声にならない叫びをあげ、洞窟から走り出す、己の足。
 あとはただ闇に包まれ、どこをどうしてここまで来たのかわからない。


 誰だ。
 あの人間は。
 俺が殺した、あの人間は。


 

 少女がため息をついた。
 ふたたび立ち上がる。
 印を組み、呪文を唱え始める。

 その時、影は気がついた。
 少女がマントをつけ、服のあちらこちらに、呪符を兼ねた宝石を付けているのに。
 

 少女が呪文を唱え終った。





 

 爆風は一瞬で、目を開いた時にはもう、かすかな砂埃しかたっていなかった。
 そう。
 柵も、消えていた。
 その先に、すっくと立った少女。
 豊かな栗色の髪。
 金色のイヤリングを耳もとで揺らし、地面すれすれの長いマントを着込み、
纏った宝石よりももっと、その瞳をきらきらと輝かせている。

 「迎えに来たわよ、ガウリイ。」

 ?

 「まあったく、手間かけさせてくれたじゃない。あんたを探して、どれくらい経ったと思う?あんたがあの、惑わしの洞窟に入ってからもう三ヶ月よ。
 おかげでブーツの底は擦り切れるし。
 野宿ばっかで腰は痛むわお風呂にもろくに入れないわ。
 ・・・この責任は、きっちり取ってもらいますからね。」

 

 「覚えてないの?あんたとあたしは、伝説の剣とやらが眠るというよくある秘密の洞窟に入って、いにしえの魔道士だか何だか知らないけど、ふざけた罠をしかけた結界にうっかり入り込んじゃったのよ。
 あたしが意識を取り戻した時、狂ったみたいに走り出して行くあんたを見て慌てておいかけたんだけど、間に合わなかったのよ。
 それからというもんあたしは、あんたを見かけなかったかあちこち尋ね歩いて、それでも見つかんなくて、ようやくここを風の噂で聞き付けてやって来たってわけ。二ヶ月前に村に現れて、あんたはこう言ったそうよ。
 『俺は殺してしまった。』って。
 村の人達は恐れをなしてあんたをここに閉じ込めた。
 閉じ込めたっていうか、あんたが自分で入ったのね。」

 
 
 「あんた一体、あそこで何の幻覚を見たの?」

 「幻覚?」

 咽の奥から、掠れた声。

 「そーよ。そういう罠だったの。自分の中にある、最大の恐怖を呼び出して
 それを幻覚として見せるの。それで脅かして、洞窟の奥に進まないようにするためね。よくあるトラップなんだけど、気付かなかったのはあたしの不覚ね。」

 「・・・幻覚?」

 「だからそーだって言ってるじゃない。何の幻覚を見させられたかしんないけど。
 それは全部、まやかしなの。ウソなの。」
 少女は一歩踏み出す。
 「あたしも見たわよ。幻覚。
で、気を失って、はっと気がついたらあんたはいないし。」
 さらにもう一歩。
 
 びく、とガウリイと呼ばれた檻の主人は震える。
 「よせ。近付くな。」
 「どーしてよ?」
 「俺は・・・・・」
 「だから、殺してないの。あんたは。全然。人なんか。」
 「違う。」
 「?」
 「殺した。一番大事なもの。一番大事な人間。」
 さらに少女が一歩進む。
 「それは、誰?」
 誰?誰?誰?誰?誰?

 ひときわ大きな痛みが、頭を襲う。
 逃れようとしても逃れられない。
 首を振り、頭をかきむしっても、痛みは収まらない。
 靴音がし、少女がすぐ目の前に迫ったことを知る。
 
 じり、と後ずさる。岩壁が背中にあらがう。
 逃げ場はもう、ない。
 少女が手を伸ばし、男の髪にふれる。
 
 「あ〜〜あ、もったいない。こんな色になっちゃって。
 まだ結界の瘴気が残ってるのね。・・・綺麗な髪の毛がだいなし。」

 少女は、髪を撫でる。
 床を覆う、滝のような黒い髪を。
 男の震えは止まり、爪をたてていた頭からゆっくりと腕が降ろされる。


 「・・・・・・・・・リ、ナ?」


 何の疑いもなく、一つの名前が浮かび上がり、それは現実の形を取って現れた。
 少女は、髪を撫でるのをやめ、にっこりと笑った。
 「そうよ、ガウリイ。」
 「リナ・・・」
 「うん。あたし。」
 「オレは・・・」
 「だから、幻覚を見てたんだってば。」
 「殺して・・・ない?」
 「ない。何も、してない。ガウリイは。」
 「生きてた・・・・」
 「当ったり前でしょ!幻覚で死なないって。」
 
 まばたきするガウリイの頬を、そっと小さな手が撫でる。
 「探したんだからね、ばかガウリイ。」

 強い光をたたえて、いつの時にも前を見据えて、決して振り返らない瞳。
 その瞳に、今は別の何かが浮かんでいる。
 食い入るように見つめられ、何かが、ぽっかりと空いていた胸の風穴を満たしていく。
 
 長い間つながれていたように思えた、重い鎖を自ら解き放つ。
 
 その腕で彼女の華奢な身体を抱きしめる。
 ガウリイは少女が痩せたことに今気がついた。
 髪の香をかぎ、頭に頬をすり寄せる。
 リナの手は、背中に回って必死にどこかを掴もうとしていた。
 その肩が震えているように思えるのは、気のせいだろうか。

 「リナ・・・・・・・・」
 「ガウリイの、ばか」

 

 

 おのれを取り戻したガウリイの身体から、
 全ての戒めは解かれ、
 床を攫っていた長い髪はさらさらと抜けてゆき、
 束となって流れ落ち、
 色が、
 いつしか輝く黄金へと変わっていった。


























=============================end.

ダーク(笑)
これは随分前に書き始めて、今まで眠ってたお話です(笑)ようやく掘り起こし、ラストまでこぎつけました。
では、こんな暗いハナシを読んで下さってありがとうございました。
そーらでした♪


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