「続・落窪と右近の少将」

 翌日のことだった。
 あめりあの元を辞したぜるがでぃすは、その足で乳兄弟に会いに行った。

 がうりいは庭をのんびりと歩いていた。ぜるがでぃすはそぞろ歩きながら、それとなく昨夜の話を打診してみることにした。
 閉じ込められ、継母から苛めに会っている深窓の姫君のこと。自分の妻が強力に推すほど、姫の素晴らしい素質、そして哀れな境遇。

 興味があるのかないのか、のほほんとした顔で耳を傾けるがうりい。
 とうとうぜるがでぃすは、こっそりその姫君を覗き見に行かないかと持ちかけた。

 「へえ。それは面白そうだ。」あっさりとがうりいは承諾した。

 「いいのか、それで。」
 ぜるがでぃすは拍子抜けして問い返した。
 がうりいはにっこりと笑い、「ああ。」と答えた。あっけのなさにぜるがでぃすは天を仰ぐ。

 昨晩はあめりあにこの乳兄弟のいいところばかり吹聴したが、実は難点もなくはないのだった。

 言ってしまおう、この変人若様は、時々何を考えているのかわからない。
 その端正な横顔に女性からはひっきりなしに文(ふみ・手紙)をもらうのだが、本人は一向に食指が働かずほったらかしである。
 浮き名の一つもないでもないが、いまだ独り身だ。何故かと問えば、面白くないと言う。相手がどんなに家柄が良くても、評判の美しい姫君でもそれは変わることがない。
 何を持って面白いのか、面白くないのか。その辺りはさすがに乳兄弟の自分でも測りかねるところだ。

 あめりあの大事な姫様に紹介するには一抹の不安があった。
 が、姫の事情を話して聞かせるうちに、がうりいの瞳に何か伺い知れないものが浮かぶのが見えた。食指が働いたと、いうことなのだろうか。

 さても次の日、丁度いい具合に中納言の屋敷で宴席が設けられることになっていた。何故かがうりいにも招待状が来ていたので、これさいわいとぜるがでぃすはがうりいを連れ出した。あめりあに連絡を取り、姫に一目だけでも会わせようと画策したが、宴席の途中で突然、がうりいがいなくなった。

 






 がうりいは庭を散策していた。まだ夕餉には早い時刻。

 ぜるがでぃすから聞いた不幸な姫のことを考えていた。何故自分がここに来ることになったのかはわからない。妻を持つ気に焦りはないし、今までに強く心を惹かれた姫君にも出会ったことはない。なのに何故、自分はここにいるのだろう。

 そんなことを思っていたので、つい宴席を抜け出し庭へぶらぶらと歩いてきてしまったのだ。そして知らぬまに奥へ奥へと入り込んでいった。

 確かに姫の事情は哀れだ。しかし、同情だけでどうこうする気にはなれない。才能ある素晴らしい姫君だと聞いても、世にそうした女性は数多く、しかも身内となればことさらに強く推す。

 どうも気分が削がれた。乳兄弟のメンツを立てて一目だけでも会おうとは思って来たが、このまま宴席に戻らず屋敷に帰ろうか。ぜるのやつは怒るかな。

 踵を返そうとした時だった。築山の向こうに、微かに人の気配がした。興味を引かれて、がうりいはさらに奥に進んだ。

 がさっ。

 木の背後から少女が一人飛び出してきた。

 「うわ。」

 「きゃあ。」

 二人は軽くぶつかった。がうりいの方はなんともなかったが、小柄な少女は転んでしまった。慌てて手を差し伸べ、少女を起こしてやる。

 ・・・・・目が会った。

 その瞬間だった。がうりいは息を飲んだ。

 おずおずと手に掴まったその少女は、はにかんだようにがうりいを見上げていた。夕陽のせいだろうか、髪が黒ではなく明るい栗色に見える。
 ふわふわと後ろにたなびき、卵型の顔を縁取り、小柄な体を覆っている。乳のように白い肌はどこにも欠点がなく、完璧だった。
 年の頃は15、6だろうか。

 何よりその瞳。夕陽よりさらに赤い。はにかんだ態度とは裏腹に、まっすぐにこちらを見つめ返す。いつまでも見つめていたい衝動に狩られる瞳だった。

 「悪かった。怪我は?」ようやく、それだけ言葉が出た。

 「ううん。大丈夫。こっちこそ、ご免ね。」

 見ると少女は手にぼろぼろの巻き物を持っていた。どうやら木の陰に隠れて読んでいたらしい。暗くなってきたので部屋へ戻る途中だったのだろう。

 がうりいの視線が巻き物に向かっていることに気がつき、少女は急いでそれを自分の後ろに隠した。
 さらにもっとよく観察すると、少女が身に付けているのは夏に部屋で寛いだ時に着る単衣(ひとえ)で、この陽気にはちょっと寒そうだった。しかも年頃の娘が装おうためのものとは思えない、質素で古びたもの。
 少女は見られていること知り顔を赤らめたが、顎を引き、しゃんと立ってがうりいの目を受け止めた。


            ………面白い。

 がうりいはこの少女に惹かれた。やせっぽちで、華奢で、幼い顔で。まだ女としての成熟を果たしていないようだが、この娘の中にある何かに惹かれた。
 名を尋ねようと思ったが、少女はいきなり猫のように身を翻し、屋敷の方に走り去った。
 ・・・・その駆けっぷりと来たら。がうりいは感嘆のため息を漏らす。

 
 よし。
 ……何としてでも、あの姫の名前を突き止めよう。

 

 






 屋敷に戻ると、ぜるがでぃすが怒った顔で出迎えた。

 「なにをしてた。せっかく人がお膳立てしてやろうと思ったのに。」

 「すまんすまん。ちょっと散歩してた。」

 「お陰で女房に文句を言われた。あれで結構キツイとこがあるんだぜ。」

 がうりいはにやりと笑ってやる。「そんなこと言って。やっと手に入れたって喜んでたくせに。他の女には見向きもせんだろう。」

 ぜるがでぃすは顔を赤くし、ごほんと咳払いをした。
 「ともかくだな、一度会ってみろよ。」

 「へ?……誰に?」

 きょとんとしたがうりいに、ぜるがでぃすはがっくりと肩を落とす。
 「…あのな。今日ここに来たのはど〜〜〜してか、ちゃんと説明したよな!」

 「そうだっけ?」

 「そうだ!」

 「そっか。んで、誰に会うんだっけ。」

 ぜる、脱力。「だから、あめりあがお仕えしている姫君。会ってから決めるって言ってただろ?」


 がうりいはやっと思い出した。
 ……忘れていたのだ。頭の中は、さっき会った少女のことで一杯になっていた。一刻も早く、あの少女の居所を突き止めるつもりだったが、乳兄弟の面目を潰すわけにもいかないので、素直に従うことにした。





 「……なあ、ぜるがでぃす。」

 長い渡殿(わたどの・渡り廊下)を歩きながら、がうりいは乳兄弟に話しかけた。
 「庭で女の子に会ったんだが。」

 そう言うと、ぜるがでぃすは大袈裟に驚いて振り向いた。
 「ウソだろ。下働きたちは忙しく台所で働いてたし、こんな時に外へ出るヤツなんかいないぞ。姫君たちならなおさらだ、庭になど出るわけがない。」

 ぜるがでぃすが驚いたのも当然である。姫君達は部屋から出ることは滅多になく、家族以外の人間と会う機会はまれだった。運動不足と日照不足が容易に想像できる生活だ。美人薄命はこの時代ではしゃれにならなかった。

 「……お前、もののけかなにか見たんじゃないだろうな。」

 「もののけか……」

 そう言って、遠い目をするがうりい。ぜるは不安にかられる。

 「それで、どうした。」

 「いや。逃げられた。何か書のようなものを読んでいたらしい。」

 「書だと?」

 「ああ。漢詩のようだった。」

 「漢詩だと?ますます怪しいな。」
 そう言いつつも、ぜるがでぃすの心には別のことが浮かんでいた。

 (…待てよ、それはもしかして………)

 漢詩を読む姫君に、心当たりがなくもなかった。
 だが、ぜるがでぃすは黙っていた。がうりいは、これから会う姫よりそのもののけの方が気になっているようだ。

 「そのへんの女に漢詩が読めるわけないだろ。やはりもののけだよ。」

 「そうかなあ。」

 明らかに心を奪われた様子だ。
 ・・・後で驚かせてやるのも悪くはない。ぜるは一人ほくそ笑んだ。

 

*********************





 

 「落窪や、衣は縫い上がったのかえ?」

 どすどすと足音も高く、北の方が落窪の部屋にやってきた。
 部屋の隅に、りなが座っていた。その前にはきちんと折り畳んだ単(ひとえ)

 りなは自分の継母を見上げる。若い頃はその器量で父を惹き付けただろうその顔も、七人の子を産み育て中年に差し掛かった女性となれば見る影もなかった。何より、つんと聳やかした肩、胸を逸らして傲慢な態度を取っている様はその魅力を半減どころか激減させているのだろう。

 北の方は無遠慮にずかずかと部屋に入り、りなが縫い上げた単をつまみあげた。

 「なんだ、これだけかい。お前には母がいないと、これだけわたしが心を砕いて何かと親切にしてやっているというのに、お前ときたらとんだ恩知らずだ。お前のとりえは縫い物くらいしかないのだから、せめてそれくらい一生懸命にやったってばちは当たらないと思うがね。」

 立て板に水方式である。物凄い勢いでまくしたてていると、たった今までりな一人で静寂そのものだった部屋が、一気に人間臭くなる。

 「ふん。まあいい。他のもちゃんとやっておおき。後でまた見にくるからね!」 
 そう言い放つと単を持ち、りなには一言も言わせずに北の方は去った。




 その後から急いであめりあが入ってきた。
 「姫様、大丈夫ですか。北の方がこちらに向かったというので、慌てて来たのですが。」

 「…縫い上げたばかりの単(ひとえ)を持って出ていかれたわ。」
 苦笑しながらりなが答えた。あめりあは憤慨する。

 「まあ。何でもかんでも北の方のやりたい放題にしているなんて、中納言様は一体どういうおつもりなんでしょう。」

 「お父様のことは悪く言わないで。お父様は、お父様よ。」ぴしりとりなが言った。

 驚きつつも、あめりあは謝る。
 「す、すみません。悪口を言うつもりでは。」

 りなは強い口調を打ち消すように、にっこりと笑った。
 「…わかってるわ、あめりあ。」

 その笑顔にあめりあは嘆息する。こんなに愛らしい姫様なのに、この仕打ち。

 「でも姫様、これではあんまりお可哀想です。」

 「なにが?」

 「だって。他の姫様のお部屋に比べたらなんて飾り気のない。姫様だってこの寒空に袷(あわせ)一つ。いくら何でも扱いが粗末すぎます。」

 「あ〜〜〜、そういうの、うざったいから別にいーわ。」
 りながぞんざいに肩をすくめて言った。

 「は?」あめりあはきょとんとする。

 「飾りって言ったって、とりあえず母様の形見の鏡はあるし、服なんて着れればなんでもいーし。ごちゃごちゃあっても邪魔なだけだし?」
 明後日の方向を向きながら、りなは答える。
 「あたしは別に、書さえ読めればいいわ。」

 「……その絵巻物だって少ないじゃありませんか。」

 「絵や絵巻物なんて姫様が読む贅沢ものでしょ。あたしはもっと、違うのが読みたい。この屋敷なんか出ていっても構わないけど、そういうのが読めなくなるのは辛いしね。他に行くところもないし。」
 あめりあが焦燥にかられるのも、一つにはこの姫の性格にも起因していた。皇統を継ぐ正式な中納言の姫であれば当然受けていいはずの栄耀栄華に、姫自身が固執していないのだ。

 縫い物を言い付ける時にしか来ない継母。娘の惨状も知らない父親。
 一人前の女性として、初めて裳(も・後ろにつけるプリーツスカートみたいなの)をつける成人の式すらしてもらえない。もうとうにその頃は過ぎているというのに。

 幼くして母を亡くし、寂しいはずなのにそれを口にしようとはしない。
 強い姫君なのだと思う一方。なおさら、それはこのような状況にやむをえず培われた強さなのだと思うと哀れを誘われた。

 「姫様が出ていかれる事なんてありません!」珍しく語気を強めてあめりあが諭す。
 「姫は正当なこの屋敷の姫様です。誰がなんと言おうと、あなたには幸せになる権利があるんですよ!」

 「幸せねえ。」りなが他人事のように笑った。

 


 「……おお、ここにおったのか。落窪や。」
 二人の会話が途切れた時、衝立(ついたて)を開いて覗いたのは中納言だった。この屋敷の主、りなの実の父親である。

 中納言はぼんやりと辺りを見回した。「なんとまあ、質素な部屋か。」

 慌てて礼を取るあめりあとりなの耳に、凡庸な男の声が空しく響く。

 「お前も可愛いわしの娘の一人じゃが、なにせ北のやつの子供も大勢おる。お前までは気が配れなくて、わしも悪いとは思っておるのじゃ。」

 あめりあは歯を食いしばった。
 ………本当にそう思っているなら。何故自分の娘を『落窪』などと呼ぶのだろう。

 そんなあめりあの苛立ちにも気づかず、中納言の独り言は続く。
 「…なあお前、もしもいい人がいたらいつでもお言い。縁談の手配もなかなかしてやれないから、いい人を見つけたらいつでも結婚しなさい。こんな暮らしぶりではあまりに可哀想じゃ…。」

 蝙蝠(かわほり)を振り振り、などとそうして一人言いたいことだけを言ったあと、用は済んだとばかりに中納言は去る。
 ………こんな父親、いいんかい。


 腹が立つ一方、あめりあはりなが不憫でならなかった。
 実の父親までがこの始末。誰にも頼れない姫。

 だがりなは顔を上げると嬉しそうな笑顔を見せた。
「何だか久しぶりにお父様のお顔を拝見したわねえ。」

 その顔を見て、あめりあはさらに心が痛んだ。
 りなは今の仕打ちより、久々に父親に会えたことの方が嬉しいのだ。

 あめりあは心に誓った。………なんとしてもこの姫様には、幸せになって戴かねば。

 

 

**********************

 



 中座した宴席に戻る途中、ぜるは思い出したようにがうりいに尋ねた。 

 「そりゃそうと、文(ふみ)は書いたのか、がうりい。」

 「……文?」

 ぜるがでぃすは目を閉じて深呼吸をする。……まさかこの男、忘れたんじゃあるまいな…。

 通常、男が交際したい女性を見つけたら、まず文を書く。紙にも気を使い、季節の花や小枝を添えたりと洒落っ気を持たねばならない。勿論短歌を書いて送る。時節も考慮し、いかに女性の気を引く文章が書けるかが、明暗を分けるのだ。

 「忘れた。」

 ……ああ、もう、この男は。
 一度、頭を小突いてやろうと思ったぜるがでぃすが拳を固めると、がうりいはあっさりと言い直した。
 「…というのはウソで。」

 があくうう。

 
よく磨かれた床の上、ぜるがでぃすは頭からつんのめりそうになるのを何とか押さえた。

 「実はもってきた。見るか?」

 「…やめとく。そういうのは女が最初に見るもんだ。」

 「じゃあお前の愛する妻に渡してくれ。直接手渡すわけにもいかんだろ。」

 「あ、愛する………」
 赤面するぜるがでぃすを、がうりいはにやにや笑って見ていた。

 「…ところで……夫婦って、そんなにいいか。」
 唐突にがうりいが言った。
 「ぶ。ごほごほ。」むせるぜるがでぃす。

 がうりいは肩をすくめ、何でもないことのように軽く言った。
 「いやなに。オレって一人の女に夢中になったことってないから。」

 「……。何だかお前を姫に紹介するのが、恐くなってきたよ。」
 ぼそりとぜるは呟く。この縁談がうまくいかなかったら、あめりあに何と言われるか。
 落込むぜるの背中をばしっと叩くと、がうりいは明るく笑った。

 「まあまあ♪今日はそっと物陰から様子を伺うだけだし。気にいれば妻にしてもいい。気にいらなきゃそれまでだ。断わる方法はいくらでもあるだろ。」

 ・・・最初から断わるつもりでいるのか。と思わせる口ぶりだった。

 ぜるがでぃすは振り返って乳兄弟の顔を見る。
 容姿、家柄、才能ともに恵まれ、なにひとつ不自由のないように見えてその実、この男には何かが足りないという気は前々から感じていた。

 何が足りないというのだろう。悪い男ではない。気のいいやつで、ぜるがでぃすにとってはかけがえのない、兄弟とも主従とも友人とも言える男だ。
 だがまだ何かが足りないと思うのだ。

 もしこの男に、自分の全存在をかけて愛する者ができたら。その時初めて、この男は変わるかもしれない。
 それがあの姫なのかどうか、ぜるがでぃすにはとんと自信がなかった。

 

*********************




 がうりいからの文を受け取り、あめりあはさすがにホッとしていた。話だけでは心もとなかったからだ。

 「ぜるがでぃすさん。どうかお願いです。」

 大きな瞳に憂いをたたえて、あめりあは愛する夫に懇願する。
 「姫にはどうしても幸せになって戴きたいのです。ぜるがでぃすさんも、この縁談のことを真剣に考えて下さい。がうりい様は、姫を気にいって下さるでしょうか。」

 先程の会話がぜるがでぃすの頭をよぎる。

 「まあ結局は本人次第だな。俺がどうこうできるものじゃないし。」

 「わかってます。わかってますけど……」

 俯くあめりあにぜるは嘆息する。この一件が解決しないと、二人にとっても障害となりそうだ。早くうざったいことは済ませて二人でゆっくりしたい。俺たちだって新婚なわけだし。

 「大丈夫だ。」ぽん、とあめりあの小さな頭を撫でてやる。
 本来、人を慰めるのは不得手なのだが、相手があめりあともなると苦手とばかり言っていられない。

 「なあ、あめりあ。確か・・・姫は漢字が読めるんだったな。」

 唐突に話題が変わり、意外な質問にあめりあは目を丸くする。

 「はい。でも内緒ですよ。知られたらまた、北の方に何と言われるか。」

 「…いや、ちょっと聞いてみただけだ。」

 いいぞ。ひょっとするとこれはうまく行くかもしれん。
 
 「じゃあ、文は渡したからな。あとで様子を伺いに行くが、くれぐれも姫に悟られないようにな。」

 「はい!お願いします、ぜるがでぃすさん!」

 目を輝かせ、一心に尊敬の念を送るあめりあに見送られながら。
 ……いつになったら、あの『さん』が取れるんだろう?
 などと実は結構可愛いことを考えているぜるがでぃすだった。

 

 

***********************

 

 「………何これ。文?」
 りなは不思議そうに、あめりあが差し出した紙を見つめていた。

 「実はわたしの夫のぜるがでぃすさんが、主従でもある乳兄弟に姫のことをお話したら、是非お会いしたいとおっしゃいまして。まずは文をお預かりしました。」

 途端に真っ赤になるりな。思ってもみない話題だったようだ。
 「な、な、なに言ってんのよ、あめりあ!あ、あんたダンナに何言ったわけ?あた、あたしはまだ、そんなの早いからね!」

 慌てるりなを見て、あめりあは微笑を隠すのに苦労した。
 あ〜あ。首まで赤くなってる。年の割に冷めた姫だと思ってたけど、こういうとこはウブなんだから。
 「とにかく。読んで下さるだけでいいですから!」

 「や、やあよ、そんなの。」

 「わたしの顔を立てると思って。」

 あめりあに押し切られ、りなは仕方なく文を開いた。
 本来ならば最初の文は姫の親か、お側付きの女性が返事を書くのだが、りなにはいない。りな自身で書かねばなるまい。はしたないこととはされていたが。


 

君ありときくに心をつくばねの

  見ねどこひしきなげきをぞする

 

 
 
 「まあ。字がお上手ですこと。」

 手放しで誉めるあめりあを横目に、りなは疑わしそうな顔で文をひらひらさせた。
 「……ねえ。この人相当ぷれーぼーいなんじゃないの?手馴れてるわ。」

 ぎくりとするあめりあ。
 「そ、そんなことはありません。真剣に姫様のことをお考えになっていますよ。」

 「だって。この歌の意味、わかるでしょ?
 『君って人がいるって聞いたんだけど、まだ会わないうちから何だか好きになっちゃったよ。会いたくて嘆いちゃうほどさ。』
 …………って意味よ。よくも会わないうちからこんな、べたべたしたこと書けるわね。」

 あめりあは頭を抱える。この姫に足りないものは恋愛の機微だけではなく……そう、色気だ。


 文を畳みながら、りなは思い出したようだった。
 「……それより、さっき外で人にあったわ。」

 この言葉を聞いてあめりあは心臓が止まるかと思った。

 「ひ、姫様!?お庭に出られたのですか!?」

 「そうよ。いけない?」

 「当たり前です!一人前の姫はみだりに人前に出てはなりません!ご自分のお屋敷でもです!そ、そんなことをなさってたなんて。」

 「姫なんて退屈なだけよ。あたしはもっと違う立場に生まれたかったな。」

 「………で、どなたにお会いになったんですか?」

 ぽ、とりなの頬に桜色がさした。おや、とあめりあは思った。

 「鬼がいたわ。」

 「お、お、お、鬼いいいいい!?

 「そうよ。青い目をして、金の長い髪を垂らした。あんな人間は見たことがないわ。」

 あめりあはその例えに、おやと思った。それってもしかして……

 「綺麗な目だった。」
 りなは外を眺める。
 「鬼なんて恐いばかりかと思っていたら、そうでもなかったわ。どっちかというと優しそう。」

 「…そ………そうですか………」

 「…やっぱりあたしは、世界が見たいわ。あめりあ。」

 りなは真剣な眼差しに戻ってあめりあに宣言する。

 「書で読んだわ。この世界は広いのよ。こんな狭いお屋敷なんか、それに比べたら塵ほどの広さもないわ。……世界は広い。いろんな人間もいる。自由もある。
 あたしはここで一生を終えるより、ここを出ていつか、世界を見てみたい。」

 「……」

 「あめりあ。あたしは男なんかより、そっちの方が大事なのよ。」

 「………はあ。」

 何とも型破りな姫君だった。
 よく考えてみれば、世間一般から言ってこの姫に対する周囲の扱いは嘆いてあまりあるものだったが、この姫はそれを不幸とは思っていないようだ。
 それが姫の強さであり、魅力でもあるのだが。

 ……こういうところを、がうりい様は認めて下さるだろうか。

 

 

 


 ところが、このやりとりの一部始終を聞いていたのが他ならぬがうりいだった。
 ぜるがでぃすに手引きさせ、格子を半分引き上げて中の様子を伺っていた。この部屋には隔てる几帳がないので、素通しでよく見える。

 まず、あめりあが見えた。長い艶やかな黒髪、美しい肌、白い袷(あわせ)の上から紅のあこめを着ている。
 なるほど、ぜるがでぃすが大切に思うのもわかる気がした。見た目の美しさだけではない、意志の強そうな気品ある顔立ちだった。事情を知らない人間が見たら、こちらが姫かと思うだろう。

 …………だが。薄暗くなってきた部屋の向こう側で、こちらに背を向けている女性がいた。
 小柄で、蝋燭の灯りのせいだろうか、髪が黒より明るく見える。
 どこかで見たような気がした。

 その時、りなが言った。
 「あたしは、世界が見てみたい。」



 がうりいの心に、その言葉が鈴のように鳴り響いた。

 この声はもののけか。…………ぜるのやつ、知っていたな。

 振り向くと、そしらぬ顔で辺りを見張るぜるがでぃすがいた。

 …………人の悪いヤツめ。
 しかし、これは僥倖(ぎょうこう)
 まさかもう一目会いたいと思っていた女の子が、あの姫だったとは。

 …………しかもだ。りなが話す内容ときたら、こんな姫の話は聞いたこともない。
 ………面白い。



 その時、簀の子(すのこ・縁側)に人がくる気配があった。慌ててぜるががうりいの袖を引っ張る。
 名残惜しいが、今ここで面倒を起こすわけにはいかない。しぶしぶ、本当にしぶしぶとがうりいは格子を離れ、その場を立ち去った。

 

 ………必ずもう一度。
 なんとしてでもあの姫に会うと固く心に誓って。









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