「約束」


ガウリイが体の変調に気がついたのは、ある朝目が覚めた時だった。

髪が、元の倍の長さに伸びていた。
ベッドから降りても、その黄金の髪の先は、まだ枕元に渦を巻くようにたわんでいた。ガウリイは自分の頭に手をやり、しばし呆然と眺めていた。




「あれ、ガウリイ、髪の毛切ったの?」
リナがトリのからあげをかじりながら、何の気無しにきいてきた。
ガウリイはぎくりと、パンをちぎる手を止める。
「な、なんでわかった?」
「だって髪の毛の先が揃ってるもの。」
「・・・・・」無言で後ろを向き、髪の先端を見てガウリイは笑った。
「ああ。ちっとばかし、伸びちまったからな。」
「自分で切ったの?」
「え?も、もちろん。」
「ふうん。マメなやつ。」それ以上突っ込まず、リナは朝食を続けた。
ガウリイはほっとし、自分も食事を済ませる。


次の朝。
やはり髪がまた伸びていた。
仕方なく小刀で切っていると、まだ手袋を嵌めていない左腕が目に入った。
手首と肘のちょうど中間のあたりに、紫色の鱗があった。
小刀は床に落ちて刺さった。


変調は明ける朝ごとに、その異様さをガウリイに見せつけた。
指が節くれだち、爪が異常に伸び、尖り、硬質化する。
切るのも一苦労だった。
鱗は日増しに数が増え、虹のような光沢を放っている。
手袋が離せなくなった。
頭に違和感を感じて探ってみると、頭頂の左右に小さなこぶのようなものがある。
時には昼間でさえ、それが疼く時がある。
ある朝は、口をすすごうとして洗面所に行き、鏡を覗き込んでぎょっとした。
糸切り歯が牙のように伸びている。
手にしたコップを取り落とし、割ってしまった。
慌てて部屋へ戻る。
口中に異物感を感じる。
リナが朝食だと呼びに来た時は、ドアの内側で断わった。
リナは明らかに不審がっていたが、それ以上追求しないでくれた。
牙は夜にはなくなっていた。

段々、ガウリイは夜に眠るのが恐ろしくなってきた。



「ねえ、ガウリイ!?起きてるんでしょ?入ってもいい?」
そんな日が続いた、5日目の夜。
ドアには鍵をかけておいた。
ノブががちゃがちゃいっている。
ガウリイは自分の肩を自分の腕で抱いたまま、ベッドの上にまんじりともしないで座っていた。リナの声を聞き、急いでベッドの毛布の中にもぐりこむ。
「もう夜遅いから、また明日な、リナ。」
くぐもった声を聞き、寝ようとしているところだとわかってくれただろうか?
「・・・・・」
ドアの向こうで、ためらう気配があった。
ガウリイは息を殺す。
頼むから、入ってこないでくれ。

やがてぱたぱたと小さな足音が遠ざかり、リナの部屋のドアが閉まる音がした。
ガウリイは、ほっとため息をつく。



そしてまた、朝がやってきた。
ガウリイは、習慣になってしまったように、自分の体をあちこち点検する。
だが今日に限って、どこにも変調は見あたらなかった。
髪も昨日の朝に切ったままの長さ。
爪も伸びてない。
口の中に指を入れて、歯を触ってみるが、牙はなさそうだ。
したままの手袋をめくってみるが、鱗も消えていた。

今までのは悪い夢だったのか。

重い頭を抱え、ガウリイは立ち上がる。
備え付けの鏡台へ行き、鏡を覗き込んだ。

そして彼は見た。

爬虫類のように瞳の細長い、自分の目で自分の姿を。



「ガウリイ!起きてよ!ご飯よ!」
ドアがどんどんと叩かれている。
リナだ。
声が苛立っている。
「何で毎朝遅いのよ?ったく、ご馳走目の前にして待ってる身にもなってよね。いいかげん、さっさと降りてこないと、火炎球でドアを吹っ飛ばすわよ。」
「・・・・・」
鏡の前で立ち尽くす男は、容易に返事が返せない。
ようやく、掠れた声を咽から絞り出すことに成功した。
「・・・先に食っててくれ。」
ドアを叩く音が止まる。
「・・・一体、どーしちゃったってゆーのよ・・・・」
声から苛立ちが消え、不安が忍び込んでいる。
「なんでもない。なんでもないから。すぐあとで行くから。だから、
先に行っててくれ・・・・・・・・」
「・・・・・」
リナは黙っている。だがまだ、ドアの前を去ったわけではなかった。
「あんた最近、おかしいよ?なんか、あたしに隠してない?」
「・・・・・」
ぎくりとする。
彼女の勘は、馬鹿にできない。
「ホントに・・・なんでもないんだ・・・・起き抜けに頭痛がするんだ。
それだけだよ。」
「頭痛なんて、どっか悪いんじゃないの?医者呼んでこようか。」
とんでもない。
「平気だよ。それほどのことじゃない。心配しなくていいから、先に行ってメシ食ってこいよ。そんなんじゃ、またムネが育たないぞ・・・・」
ごいん。
ドアを殴る音がした。
「よけーなお世話よ!・・・あいたたあ・・・・・・」
ぷっと、ガウリイは吹き出す。
その耳に、リナがぶつぶつ言いながら、階下へ降りていったのが聞こえていた。

ガウリイは、こうなってしまった原因に、全く心当たりがなかったわけでもない。霧の向こうのような、かすかな記憶の中に、ばあちゃんから聞いた昔話がおぼろげに残っていたからだ。
だが、それも言い伝えの言い伝えみたいなもので、はっきりとしたことは何もわからなかった。ただ、ガウリイの一族に、時たまこういう人間が出るのだ、ということ以外は。

昼を少し回った頃、ようやくガウリイは階下に降りてきた。
いつのまにか瞳が元に戻っていたからだ。
だがまたいつ、その状態になるかわからない。
今のうちにリナに少しだけ事情を話し、安心させるつもりだった。

そしてそのあと、リナと別れるつもりで。


食堂へ行くと、昼食を食べに来る客が一段落して店の中はがらがらだった。
てっきりリナはいないものだと思っていたら、窓際のテーブルに見なれた姿があった。
「リナ」
声を掛けると、ちょっとすねたような顔がこちらを向いた。
「すまん。遅くなっちまって。」
「・・・・・」
ガウリイは席に着く。
どうやって話を切り出そうか迷っていた。
リナは無言で、メニューを差し出す。
「全然食べてないでしょ。さっさと好きなの頼みなさいよ。」
「え・・・あ、いや・・・・・」
とても食べる気分ではない。
「・・・食欲もないの?」
「う・・・・うん。」
何と説明してやればいいのか。
目を落とし、考えるガウリイの額に、そっと触れたものがあった。
顔をあげると、リナが身を乗り出して片手をガウリイの額に、もう片手を自分の額に当てていた。そして急に気がついたように、へへ、と笑った。
「やだ、あたし、手袋したままだった。」
ガウリイは、目の辺りに何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。
急いで言葉をつなぐ。
「リナ、ちょっと話が・・・・」
「ねえガウリイ、熱がないならちょっと散歩しない?」
「え」
立ち上がり、テーブルを回ってリナは強引にガウリイを立たせる。
「ほら、早く。」
「あ、ああ・・・・・」

そうだな。
話すなら、人のいないところの方がいいだろう。



町の通りには人が少なかった。これがあと2,3時間もすれば、仕事から帰る人や夕飯の買い物に出かける人でもう少し賑やかにはなるだろう。
だが今目にするのは、遊びに興じている子供達だけだった。
通りを1つこえると、薄暗い裏通りに入った。
両側を建物に挟まれ、異様な静寂と圧迫感を感じる。
さらにひとけはない。
黙って歩き続けるリナの後を、同じく押し黙ったままのガウリイがついていく。

「ちょっと、そこの人。」

二人に声を掛けた者がいたのは、そんな裏通りを半分くらい進んだ時だった。
「?」
振り返った二人の前に、さっきまで全然気付かなかった老婆が一人、膝に猫を抱いて家のあがりがまちに座っていた。黒っぽいフードのついたトーガを着込み、胸の辺りに薄汚れた護符のついたネックレスをつけている。
「あたしたちを・・・呼んだ?」
リナが老婆に近付いた。
「あんたじゃない。そっちの、男だよ。」
肉がごっそりそげ落ちたような、骨ばった指を伸ばして老婆はガウリイを指差した。「お前さんだ。ちょっとこっちへおいで。」
「オレ?」
ガウリイは驚いてリナの後ろまで歩いてくる。
「そうじゃ。もちっと近くへお寄り。」

請われるままに、ガウリイは老婆の側に跪く。リナはそのすぐそばに立つ。
閉じているかのような、細い糸のような目を老婆は向けた。
その目は、盲いているようだった。
「お前の一族は過去に何か、人智を超える強大な魔を倒さなかったか。」
呪文を唱えるような声。
ガウリイはぼーーーっとする。
リナははっとする。
「ザナッファーのこと?!」
「ほう。心当たりがあるか。ならば話は早い。お前さん、」
と、ガウリイの胸を指差す。
「胸に獣を飼っていないか。」

ガウリイの呼吸が止まる。

「時々出るんじゃよ。そういう男が。祖先に人間の領域を超えた存在に干渉した者がいると、その報いがのちの災いとなって残るんじゃ。長い年月をかけて、少しずつ、世界の均衡を戻すため、帳じりをあわせるんじゃな。ひとつの呪いと言ってもいい。
だがそれは、魔法陣や魔法具や呪文によって構成されるものではない。
・・・血じゃよ。
血の中に、ひそかに組み込まれるんじゃ。
長い年月の間に、その仕掛けに反応する者が生まれる。何人も、何人も。
獣と化して、人を襲う者もある。
恐ろしくなって、自ら命を立つ者もいる。
・・・直す方法はないんじゃ。
胸の獣を飼い馴らすか、食われるかどちらかじゃ。
そう、飼い馴らすのに成功した者もおる。大概、そういう男は大器になる。
英雄と呼ばれることもあろう。
だがそれは、ほんのひとにぎりの人間の話じゃよ。」

血。
オレの、血の中に?

リナは黙ったままだ。

「・・・なんのことか、わからないな。」
ガウリイは用心深く話を逸らそうとする。
老婆はかすかに口の端をゆがめる。
「信じる信じないは勝手じゃ。・・・だが、わしにはわかる。
お前の胸を今にも喰い破り、産声をあげんとしている獣の鼓動が。」
思わずガウリイは胸を押さえる。
リナはそんなガウリイを黙ったまま見ていた。




「いい天気ね。」
リナが、その豊かな栗色の髪を風になびかせて振り向いた。
ガウリイは眩しそうにその様を眺める。
「ああ。」

遠い昔、誰かが建てた胸壁の名残り。
長い年月の間に緑に侵蝕され、ただの土塊にしか見えない。
人が建てた人工的なものも、年月が立てばいつかこうして自然に帰るのだろうか。
リナとガウリイは、老婆の元を去り、町外れまで来ていた。
午後の空は高く高く、突き抜けるように青い。
気持ちのいい風が、二人の頬をなぶる。
ガウリイは土塊に帰ろうとしている胸壁の一部に腰を掛ける。
リナは、でこぼこになったその上を、危なっかしい足取りで跳ねるように歩いている。「危ないぞ。」
「へーきよ。」
両手を広げ、バランスを保ちながら、リナは言った。
「それで、話って?」

「へ?」
「食堂で何か言いかけたでしょ、話があるとかなんとか。・・・なに?」
こちらに背を向けたまま、まだふらふらと歩いている。
ガウリイはいつ倒れるかはらはらしながら、その背中から目が離せない。
だがリナがこちらを向いていないことに感謝する。
とても、あの瞳を真っ向から見据えたまま、冷静でいられる自信はない。
「悪いが、お前さんとの旅もこれまでだ、と思ってな。」
ぴたりとリナの足が止まる。
「・・・終り?」
「ああ。光の剣はなくなっちまったし。そこそこの剣は手に入ったし。
これ以上、お前さんと旅をする理由もないだろう。
それにオレは、ちょいとヤボ用ができちまった。これから故郷に戻るとするよ。お前は、オレにそこまで付き合う必要はない。
だから、ここでお別れだ。」
言えた。
「・・・・ばいばい、ってこと?」
「ああ。そうだ。」
「話って、そのこと?」
「ああ。そうだ。」
「・・・・・」

リナが、ずるりと土塊から転び落ちそうになった。
咄嗟にガウリイは反応していた。
後ろから抱きとめる。
「大丈夫か」
「・・・・こうやって、助けてくれるのも、最後ってこと?」
「・・・・・」
途端にリナは、するりとガウリイの腕から抜け出し、やおら向き直る。
びし、と指をたてる。
「それであたしを納得させられると思ってるの?
まだまだ甘いわね、ガウリイ!」
大きな紅の瞳が、痛いほどねめつけてくる。
「あたしに隠し事しようなんて、100万年早いわよ。
しかもガウリイのくせに。
騙すならもうちょっと、うまくやることね!!」
「騙すって・・・・」
思わずたじろぐガウリイ。
「そーでしょ!あたしが何にも知らないとでも思ってるの!?これでも、
天才魔導師の自称はダテじゃないのよ!さっきのお婆ちゃんの話だって、初めて聞いた話じゃないわ!!」
「え・・・・・」初耳だった。
「でもそれが、まさかあんたの一族までとは思わなかったけど。」

「・・・・・なら、わかるだろう。」
知らず、口調が激しくなる。
「このままじゃ、オレはこの胸に住む獣とやらに喰われ、オレじゃなくなっちまう。・・・見ろよ。」
髪をたぐりよせ、先端を見せる。
「毎日切ってるんだ。朝起きると、倍くらいに伸びちまってるからな。
爪だってそうだ。ナイフが歯こぼれしちまうんだ。
手袋をしてなきゃ、人前にだって出られなかった。
鱗がびっしり生えてた。
それ以外にもまだ、言ってないこともある。
・・・・だから、わかってくれ。
オレは、オレでなくなる前に、お前と別れたいんだ。」
一気に溜まったものを放出すると、ガウリイは長いため息を吐いた。
彼女を責めてどうなるものでもない。
それは自分が一番知っている。
だが、言わずにはおれなかった。

ぱちん、と目の前で何かが弾けた。
・・・と思ったら、リナが頬を叩いたのだ。

「ばか」
「・・・・・・?リナ?」
叩かれた頬を、信じられない面持ちで触れながら、ガウリイはリナを見上げる。彼女の立ち位置の方が高かったのだ。
リナの目は、燃えるようだった。
怒っている?
「あんたこそ、わかりなさいよ。あんた、今まで誰と一緒に旅をしてきたと思ってんの!?あたしよ、リナ=インバースよ!?
今まで一緒に、誰と闘ってきたの?それこそ、人智を超えた、人間の領域を遥かに超えちゃった連中だったでしょ?
なのにあんたは、自分がどうにかなっちゃうかも知れないってだけで、あたしがびびるとでも思ってるわけ!?」
一気に畳み掛け、ひとつ深呼吸。
ガウリイはあっけにとられている。
「あんたの様子がおかしいのはちゃんとわかってた。でも、あんたはそのことに触れて欲しくなかったみたいだから、今までほっぽいといたけど。
髪が伸びた?
爪が伸びた?
鱗が生えた?
・・・・・・・・・・それが、どーしたって言うのよ。」

腰に手を当て、胸を張って精一杯背伸びをしているリナ。
ガウリイは何も言えない。
「それが、どーーーしたって、言うのよ?ガウリイ。」
突然、リナの声が優しくなった。
手を伸ばし、自分が打った頬を撫でる。

「どんなになったって、あんたはあんたよ、ガウリイ=ガブリエフ。
あたしと一緒にずっと旅してきた、相棒よ。
その相棒が血だかなんだかのせいで、おかしくなっちゃうって言うのに、あたしがさっさとあんたを見捨てると思うの?それにあのお婆ちゃんだって言ってたじゃない。制御した者だっているって。限り無くゼロに近いかも知れないけど、ゼロじゃないのよ。だったら、あんたにだって十分可能性はあるわ。」

ふと、目が照れたように彷徨った。
だがきっぱりとこちらに眼差しを向けてくる。

「・・・今まで、あたし、あんたのことを誉めたことってあんましないけど・・・・
あんたは、立派よ。
その辺の男に比べたら。
何だかんだ言っても、あんたは強いとあたしは思う。
このあたしが認めたんだから、相当なもんよ。
そのあんたにできなくて、誰ができるって言うのよ。
少なくとも、あたしは信じるわ。あんたの可能性を。」

ガウリイの目の前に、小指の立てられた小さなこぶしがあった。
リナが囁く。
「約束よ。」
もう一方の手で、だらりと下げられたガウリイの手を取り、小指を引っ張って自分のそれに絡ませる。
ガウリイが目を見開くと、リナはその青い瞳を覗き込む。
「約束よ。・・・だから、絶対、何があっても、自分から命を断たないで。」

ガウリイの顔に驚愕の色が走る。
読まれていた。
リナには、オレの考えなど。

そんなガウリイの顔に、笑顔を取り戻したくて、リナは自ら微笑む。
「約束よ。ウソついたら針千本飲ますからね。」
「おい、オレは・・・・・」そんな約束はしてない、そう言おうとした。
リナの目がきつくなる。
「もしどうしてもあんたが胸の獣に勝てなくて、誰かに危害を加えそうになったら。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あたしが、殺してあげるから。」

青と赤。
刃を交えるように交錯する二つの眼。
やがて青が負けを認め、閉じられる。

「・・・・わかった。必ずお前の手で、殺してくれ・・・・・・」




後編へ行く。